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イッセイエッセイ

992号 対象と人間

2014年09月29日(月)

 およそ真理の正しさについての根拠というものが、対象のものの側にあるのか、それとも認識や判断をする人間の側にあるのか、これは昔からの難問であり、その断定は見かけほど簡単ではないようだ。
 世界史を学べば気づくことだが、自然学であれ政治や哲学であれ何であれ、いつの時代の人々も、いま自分たちが抱いている新しい考えは正義にかない正しくて絶対であると信じ、それ以前の考えはおよそ迷盲だ、と過去を批判してきた。そして現代の我々も、おそらくそういう立場にいる。
 「日曜に想う」(9/14朝日新聞 特別編集委員)は、いわゆる慰安婦問題と吉田調書の報道の取消について書かれている。
 「真実と正直に向き合いたい」、「なぜもっと早く点検できなかったのか」、「悔しくてしょうがない」、「悔しくつらい」、「事実と向きあう真摯な姿勢」・・・というような、感情をこめた反省の弁が述べられている。できるだけ多くのファクトを集め、一寸先、明日、未来がどうなるのかを考えるという初心に立ち返り、いまいちど出直そうというのである。
 こうした主観性のつよい考え方は、出だしの議論にもどってみた場合、真実を判断する能力と責務が、人間の側すなわち自分たち自身の側にあるとする考え方である。かつ、将来の予測も含め物事のあるべき姿や方向を自分たちで見定めることができるという立場のようだ。
 しかし今回の問題は、メディアの仕事が社会や政治の場における教師や審判員ではなく、ある主張を述べるにしても、基本は対象についての情報を提供する媒体であるはずということを、世に示した事例ではないかと思われる。
 新聞やテレビの生活情報、さまざまな地方の話題など、こうした記事や報道はきわめて役に立っていると感じるのだが、特定の領域になると有用性があやしくなるのはなぜなのだろうか。
 W・リップマンは「世論」(1922年)において次のように書いている。
 「私は、もし世論が健全に機能すべきだとするなら、世論によって新聞は作られねばならない、と結論する。今日のように新聞によって組織されるべきではない。私は、その組織化こそが政治学のまず当面の課題であると考える。」

(2014.9.14/15 記)