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イッセイエッセイ

989号 周縁と中心。言葉しり取り。

2014年09月26日(金)

 日本経済新聞社の「文化」欄(2014.9.14)に小野正嗣まさつぐ(1970年生まれ)という作家が、『家族で帰省』という随筆を書いておられる。これを読ませてもらって日本の都会と田舎、子供と大人などの関係を考えるのに、面白い材料が得られると感じた。
 作家の実家は「大分県南部の海辺の小さな集落」にあるという。妻は大阪だから最近は経由して毎夏に帰省する。子供が小五、小三、五歳の娘、二歳の息子の四人。――又うれしいではないか。

 「故郷の過疎化」、「もうすぐ廃校になる僕の出た小学校では、新入生が三人とか四人の年も珍しくないそうだ」、「見回すと道を歩いている人影はない。ときどき老人が通る。そもそも人々はあまり外を歩かなくなっている。どこに行くのも車を使うのだ」。――又その通りだろう。

 子供の頃は「自分は移動しない」が、都市部から帰省する家族は沢山いた。「よそから来た人に『海がきれいだ』と言われると代り映えのしない景色が美しく見える気がし、『魚がおいしい』と言われると食べ飽きている刺身も食べようかという気にもなる」。――又このあたりの文章はいまの地方での会話でもあるな。

 ここからは経験から離れてやや観念的な分析に移る。
 「要するに、僕はつねに『中心』に訪問される『周縁』の住人だったのだ」、「周縁であったカリブ海の島々やアフリカ諸地域の現代文学に惹かれたのは、そこに僕にとってなじみの深い経験が読めたからだろう」、「かの地の文学者たちの話題は、自分たちの土地を、かつては植民地、いまは観光地として訪れる『中心』の住人が抱く紋切り型のイメージ(美しい浜辺、楽園的な自然、怠惰だが純朴な人々)とは違う、自分たちにとっての『リアルさ』を追及することだった」、「裏を返せば、それほど周縁の人間の自己形成に外部の視線は決定的なのだ」、「その文学者たちがほぼ例外なく『中心』で学んだり働いたりした経験を持つのは見逃せない」、「内にいたままでは見えない故郷の美点や欠点が見えるようになる」、「『中心』を眺める自分たちの視線もまた過度の偏見や憧れで歪んでいることに気づくことでもあろう」――そうかと思う。

 そして結論。
 「『ここ』が中心であれ周縁であれ、『よそ』が都会であれ田舎であれ、『ここ』と『よそ』との間で視線の往復運動をくり返していくうちに、自分の『いま、ここ』の『リアルさ』は獲得されていくのではないか」。――しかしそれでも、「中心」と「周縁」は変らず「よそ」と「ここ」の構造で残るのかしら。

 「ここ」からは思いにふける作家と子供たちの声の現実の描写。「いま、ここに引き戻される」。
 「つまんない!」、「どこか連れてって!」、「東京にいるときと変んない」、「もっと退屈」、「いま学校お休みだよ」、「遊びたくてもまわりに同じ年位の子供がまったくいない」、子供への同情と作家の気持が書かれる。
 この随筆の最後の箇所は、別の問題の参考材料が得られると思う。姉さんたちによる不満の合唱について、二歳の幼児が、声の語尾のところを「ないっ!」「てー!」「よっ!」と真似て話すところが書かれている。
 発話の語尾のところを幼児が口真似するところは、英語のラジオ番組の学習において、短い文章を口を馴らして暗記させるために、センテンスを語尾の方から区切ってだんだん長くしながら全体を暗踊する方法(バックアップ・リピーティング)を想起させるのである。幼児の実際の日本語修得の様子が、英語のドリルと似ていると思ったのである。書かれた文章では最初の部分に関心を向けがちだが、発話の場合は時間的に最後の聞えたところから反芻して初めの部分にさかのぼることがどうも実際のようであり、言葉の習得により重要だと感じたのである。

(2014.9.15 記)