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イッセイエッセイ

974号 起源について

2014年08月21日(木)

 起源(アルケー)というものは、ギリシャ以来の西欧哲学がいうような、前もって存在したり与えられたものではない。それは思考の産物である。起源とは特定の目的から過去にさかのぼり、いわばでっち上げられた想像的端緒なのである。
 こういうことを、アルチュセール(1918-1990年、仏)という哲学者が言っていることを、この夏の読書で知った。
(「アルチュセール」認識論的切断 現代思想の冒険者たち第22巻 今村仁司著 講談社1997年)
 現代社会を理解するのに、封建制から資本主義への歴史をたどることで可能だという理解はまちがいであり、それが歴史の結果ではあっても、過去をもって現在は説明できない。現在を現在の平面で、現在性の構造で不連続で具体なものとして、過去とは根本的に違う歴史では語れない独自の社会として、説明しなければならない。これは起源なき事実的な偶然・出会いということである、と言っているらしい。偶然の偏向(クリナーメン)こそが世界(出来事)の起源であるとも言っている。
 こうしたアルチュセールの言説は、宇宙理論でいえば対称性の破れ、ないしビックバンモデルに似る。物質の素となっている粒子は、存在するが場所が特定せず振動する性質のものと最新の科学は述べているから、そうなれば、彼の説は確率ないし偶然性の考えにつながってゆくことになるだろう。
 アルチュセールを読み解くこの本の著者今村仁司教授は、こうした唯物論の系譜としては、デモクリトス、エピクロス、マキャヴェリ、スピノザ、ルソー(「人間不平等起源論」の)、マルクス、ニーチェ、ハイデガー(「偶然的投げ出し」を語る)が主要人物であるとする。
 「唯物論哲学者は、アメリカの西部劇のヒーローのようにいつも『走っている列車』に飛び乗る人です」(アルチュセール「哲学について」)という筆者引用による哲学者の言葉に会うとき、読者としては重い気持を離れてやや気分が愉快になる。しかし、映画に出てくる保安官やガンマンはそれぞれ特有の使命感を心にいだいており、単なる風来坊、渡り鳥ではない。
 今日の「本よみうり堂」(読売新聞2014.8.17)の書評欄では、互盛央著「言語起源論の系譜」という本を、前田英樹・立教大教授(批評家)が紹介している。書評の冒記で「言語の起源を問う、という思考はそれ自身のなかに一種の病根を持っている。けれども、この問いは人間中心主義の西洋文明においては、ほとんど避けることのできない難問としてついて回る。」と記す。これこそ例の「起源」の問題だなと覚った。また、著者互氏が研究しているスイスの言語学者・ソシュール(1857-1913年)について、「言語の起源を問題にすることは、なぜ偽の問いなのか。最も簡単に言うなら、言語の内側でしか決して生まれない思考や論理を、言語起源論は言語それ自体に当てはめて語るからだ。太古の闇まで遡っても、人は昨日話した言葉しか話したことはない。人間は言語の発明者ではない。…」と解説を加えている。
 われわれが観念論者的なのかどうかは知らないけれども、いつも起源を問うのを好む。そして恐竜の起源のように実際に物には始まりがあるものがある(しかし、軽々には言えないが)。しかし人間自身に関したことの起源は、問うてもわからぬものが多い(こういう表現も哲学的には厳密ではないのだろうか)。たとえば言語の起源、お金の初め、泥棒のはじまり、最初の王様etc…。
 自分たちがいつ、どのようにして言葉を覚えたか、自らの力では語ることができないのと同じことなのであろう(これも正しいかどうか)。
 人間は、大は物質界における宇宙の起源や、小は素粒子の起源を、10の二十数乗からその逆数の幅の世界まで、最近になってようやく科学的にあらかた知るようになった。
 しかし、パスカルが自分が「無限と虚無」の二つの深淵の中間にあるのを眺め不思議かつ恐れおののく、と述べたのは真実であり正しく、「事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており」(パンセ2章72)と、自然のなかにおける人間を観念する。
 有名なゼノン(パルメニデスとも)のパラドックス、「アキレスと亀」のアキレスは、いつまでたっても亀には追いつけない。こういう議論の仕方は一種の極限論における追いつき算であり、追いつくまでの数学でいえば微分や極限値の領域分野になろう。しかし、だからといって簡単にばからしいと片づけられない脱出不可能論である。両者の距離を山の麓と戦場と見なせばともかく、その間に無限の認識上の距離があるとしたら、亀という「起源」には容易に辿り着くことはできない。亀はアキレスにとって草原の陽炎のごときものとなる。
 起源を問うことはできるし、問うてもよいことだが、限度があるかどうかの自覚が原理的にいるということであろう(と書くと哲学的ではないのだろう)。

(2014.8.17 記)