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イッセイエッセイ

968号 現代小説の利きかた

2014年08月11日(月)

 江戸時代の侍とか封建制の女性のことを想像しなければならないとき、日本史で習った知識よりも、子供の頃に親しんだチャンバラ映画によってどうしても物分りをする。さらに昔読んだ鷗外の歴史小説や史伝、長谷川伸の股旅物の影響をうけ、事実と物語の区別が一層つかなくなり、時代物の構造で昔のことを理解してしまう。
 現代のことについてはどうだろうか。この場合も、小説的な枠組みが意外と力をもっているのかもしれない。しかし自分たちの生きている現代の人間のあり様について、小説で理解したりすることが出来るかどうかだ。
 現に生きている現代は、直接的によく真実を分っているようだがそう簡単でもない。自分たちの経験や狭い世間は、あまりに普通すぎ、一方で、日々起る特別な事件などはそのままニュースで知らされても実に奇々怪々である。さらにコマーシャルだらけのテレビによってドラマを見ても、そんなことは有りえないような感想をいだく。やはりすこし落ち着いた形式の理解の仕方が、要ると言えばいるのである。
 しかし、現代作家の小説はあまり読む気持もなく、最後に読んだものも何時頃のことだったかと思い返すばかりである。たまに新聞書評をみることはあるが、書評だけで済ますことになる。

 ここまでこんなことを書いてきたのは、今回、久しぶりに「恋愛小説」なるものを読んだからである。ゆえあって村山由佳作の二冊「天使の卵」(1994年 集英社)、「おいしいコーヒーの入れ方Ⅰ(LET IT BE, STAND BY ME)」(1999年 集英社文庫)を読んだ。
 前者は1993年小説すばる新人賞の受賞作品、後者は1994年の作であり、その後10作以上がシリーズ化されているようだ。さらに2003年の直木賞作品「星々の舟」(文藝春秋 平成15年)という順序なのだが、今日のところは最初の何十頁を読んでそのままになっている。もう一冊も残っていて「ダブルファンタジー」(2009年 文藝春秋)、これは中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞の作品だが手つかずである。眺めるに一息どうにも必要とする小説と思われ、このままで終るかもしれない。
 先の二作は1990年代のバブル崩壊直後の時代にあたっているので、一昔前のことと言ってよく、正確には現代そのものではない。その後に生じた世知辛いさまざまな時代の影は、これらの小説の中ではまだ見えてこない。東京郊外が舞台であり、関係する地名がいろいろ出てくる、房総の田舎の話もある。マスターが経営する駅前喫茶店、おふくろが切り盛りする飲み屋など、風景としてはやや昔なつかしい心持ちのものである。コンビニはまだポピュラーではなく、携帯電話ではなく「受話器をとる」との描写がある。
 主人公は女性ではなく、男子の目から描かれていて高校生であったり予備校であったりする。年上の20代の女性との恋愛感情、ないしそれ以上の関係がテーマである。父母との縁がうすく、人の死の場面が多い。人物は秘密をもっているが、物語の展開にしたがって自然に明らかになる。漱石で読んだ文学論の構造様式(?)でいうなら、そこに弱い三角関係や社会的な制約がかかっている。登場人物は反社会的でなく大体において有能だが、世間的ではないところがあり、金銭や法律めいた話は中心には出てこない。
 そのほか、小説を読む前に、エッセイ的な「楽園のしっぽ」(2005年 文藝春秋)、翻訳「不思議の国のアリス」(2006年 メディアファクトリー)を一読した。
 まだ「約束」(2001年 集英社)、「さいごの恐竜ティラン」(1999年 ホーム社)が残っている。

 8月3日(日曜日)の福井新聞の書評面「著者の肖像」に、『原節子、号泣す』(集英社新書)の著者で文芸評論家の末延すえのぶ芳晴(1942年生れ)さんが登場している。
 映画監督の小津安二郎の作品の深部に分け入って、映画のスクリーン上に現れるものを材料のテキストとして、その構造に入り込んでいるという評論方法である。それぞれの映画を約200回見ているという。
 「晩秋」、「麦秋」、「東京物語」は原節子の演ずる「紀子三部作」と呼ばれるそうである。小津作品の構造は、夫婦・親子といった対の関係の一方が欠けていて、幸福の源泉が欠落している。「それを補おうとする力が家族の中で働き、そこからドラマが始まる」欠落を埋め幸福な関係性を維持しようとするが、一方の都合だけで幸福の努力を長続きさせようとすると崩壊を招くことになる。その幸福の限界において監督の予想を超えた女優の過剰な演技が生まれる、という見方なのである。

(2014.8.9 記)