西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

950号 いわゆるマルチリンガル

2014年06月02日(月)

 この五月の連休をはさんで、ヨーロッパのオランダ、ドイツ、オーストリアに出張した。オランダは蘭語、ドイツとオーストリアは独語が通用語であるが、大体どこでもわれわれが行くところでは英語が通じ、オランダ人もオーストリア人も英語を普通に話すわけである。
 とくに国際原子力機関IAEAの会議は、各国から関係者が300人ほど来ていたが、会議はすべて英語であり、日本語の同時通訳はしてくれないのである。
 数年来ラジオやテレビの番組を聴いていても、さまざまな国の人たちの英語が会議で話されても、そんなによく分かる訳ではない。話されている英語にようやく、自分の気持を集中するという態度が取れる程度なのである。
 旅行中のガイドは国ごとに変るのだが、どの女性もその国の男性を夫にし子供をもつ奥さんらしいという理解をした。居住国の言葉はともかく、彼女たちの子供たちが英語をどのように学習したのか尋ねた。そうしたところ、学校では教えていないという(ほとんど教えていないという意味かもしれない)。ならばどうして英語を習得するのか、と改めて質問すると、TVのチャンネルでも沢山の言語が放送され、周りの人たちも様々な言葉で話すので、自然に(?)英語も身につくのではないかと言うのである。
 以上の話は完全には腑に落ちた情報ではないのだが、他国語の習得には、周りの環境が何んといっても大きな影響をもつと言うことは確かだと思った。
 ホテルで朝の出発を待つ間に、ロビーに掲げてある詳しい地図を眺めてはじめて実感したのだが、オランダとドイツとの国境は、日本の県境よりはまるで複雑であり、地形に関係なくジグザグに出来あがっている。高校の地図帳では国境の複雑さはよく分からない。
 歴史的な経緯はあるにしても、見た目には境界線には必然性がほとんど感じられない。境界がこのように実際上は無意味に近い状態であれば、言葉だって、あれこれ境目を気にすることなく自然に使わざるをえない現実になるのだろうと思った。
 日本のように海に隔てられしかも極東の地にあって、特異に形成された母国語を大昔から継続的に使い、他国の言葉を全く使う必要のなかった我々にとって、バイリンガルになろうとしたら工夫した環境の準備と学習上の集中力が必要だろう。しかし一方で、ヨーロッパで普通にできることが、わが日本で原理的に実行不可能な話しでもないとも思われるのである。

(2014.5.25 記)