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945号 ローマ人の精神

2014年04月23日(水)

                                          この種族について語ることは苦痛である。
                                         というのも、彼らについての我々の知識は、
                                         海中に沈んだ町の鐘の響きのようなものだ
                                         からである。
                                         ――モムゼン「ローマの歴史」第8章(サベ
                                         ッリ人、サムニウム人の始原)

 学生時代に民法という法律を習ったが、そのころの教授法は学問的には概念法学であり、実務な傾向の学問では全くなかった。例えば親族法では、学年末の試験も夫と妻がどうだとか、XとYがどういう事をして、訴外の甲と乙が・・・といった種類の状況設定とは無縁の問題であった。実際の親族法の試験問題は極端なものであったのでなぜか記憶している。それは一問きりで、「民法典における婚姻観について述べよ」という科挙的な問題であった。これを二時間かけて論文化させたのである。
 講義の方は毎回すこしずつ進んでいくのだが、その進捗が学生から見てはっきりした章節立てになっておらず、いつの間にか次に移ってだんだん終って行く、というような感覚であった。どんなことを具体的に習ったかまとまった記憶もない。ただなんでも教授が「ローマ法においては」という言い回しをよくしたのを憶えている。教授の教科書の注書きにはローマ法の考え方が法解釈の参考に書かれていたのだが、学生のわれわれには関心のない事柄であった。ローマ法という専門の講座としてもあったやに思うが、興味を呼ぶような分野ではなかった。しかし「法哲学」という授業をうけた。唯一記憶していることは、すべからく法の精神とは「各人に彼のものを(スムクイケ)」ということであった。

 最近、マキャヴェルリ著の「ローマ史論」(1~3巻)を通読したので、その元になっているリーウィウス著「ローマ建国史」(鈴木一州訳2007年 岩波文庫)の第一巻に向おうとした。古典古代のラテン語を邦訳することは、一定の文学と技術がいるものと思われる。本書の訳文は「ローマ史論」のような文語訳的ではなく、いちおう口語訳である。その調子はしかしローマ時代のレリーフの浮彫りのようであり、情景をしいて鮮明化させないような文体になっている。
 いつの時代でも結婚や家族関係というのは、民族や国家の大問題である。先の法学でローマ法の婚姻観をどう教わったかについては、定かではない。このリーウィウスの「建国史」でも、伝説ともつかぬロームルス王の最晩年の年代記(前753-716)が、冒頭部分のところにある。「サビーニー処女の拉致」という事件が描かれている。このルーブル美術館の歴史絵画にでもあるような生々しい出来事も、記述はアルカイック調の翻訳であり読み物としては救いである。

 「既に共同体ローマは大いに有力で、近隣市民国のいずれとも戦にひけはとらなかった。ところが女性は僅かなので、さしもの大衆が一代限りで終えようとしていた。家に子の生まれる望みがなく、近隣の民との通婚もなかったからである」(リーウィルス「ローマ建国史」9-1)
 「通婚を求める使節の言葉はどこでも快く聞いてもらえなかった。それほどまでに近隣の民はローマをさげすみつつ、同時に、彼らの真中の新勢力が大きく成長することを彼ら自身のため、また、子孫のために危惧きぐしていた」(同9-5)
 ローマが用意した催物に「彼らは家ごとにねんごろに招待された。またウルプスの位置と市壁、連なるいらかを眺め、これほど短期間に共同体ローマが成長したことに驚嘆する」(同9-9)
 「催物の時刻が来て、それへ目と心が釘づけになった時、示し合わせたとおり実力行使が起きた。合図が出るや、ローマの若者たちが処女おとめさらうべく走り散る。処女の多くはたまたま出会った男に拉致された」(同9-11)
 悲痛な思いでその場を逃げ去った親たちの訴えをもとに、ここからサビーニー人など不法を受けた周辺民族と、ローマ人との間に死闘が起る。戦いの最後の段階で、女性たちにとってその父親と夫たちの間の争いを止めて欲しいという、女性たちの懇願と仲裁が行なわれる。和解の結果、ローマ・サビーニー両民族の共同統治の歴史が始まる。

 このように、古代における通婚の原初的形態を、リーウィウス(前57-後17)は恥じる気配なく記録しているが、やや前代にあたる共和制末期の政治家キケロー(前106-前43)は、「粗暴きわまる」蛮行と見ている (これは鈴木訳の注解による)
 1902年、第2回ノーベル文学賞を受けたモムゼン(1817-1903)の「ローマの歴史Ⅰ」(ローマの成立)を見ても、なぜかこの出来事については言及がない(長谷川博隆訳2005年 名古屋大学出版会)。一方、最近の抄訳本である「ローマ建国史」(上)(北村良和編訳2010年 PHP研究所)では、有名な「サビナの略奪」として解説している。この編訳者によれば、都市ローマは、民俗学のいう「若衆宿」の永続化から生れたらしいとし、かくしてローマは侵略国家として成立した本質があり、狡猾、狡知こそローマの国是であるとする(北村編訳の概要解説と注釈から)
 当時の社会環境について、前掲「ローマ建国史」(岩波文庫)の鈴木訳の訳解では以下のように解説する。
 ローマ人は、男性が17歳、女性が15歳で結婚し、一夫一婦を厳守。妻は法律上無権利であるが、実生活では決定的影響力を持ち、子の養育、結婚を決定し、夫の公職行動に助言し、夫と政友の場に同席もするなど、ローマの主婦は世界史に稀有な光彩を放っていた(拙注 下述のヘーゲルの評価とはやや違う)。結婚の際に生家から持ち来た婚資(ドース)が与って大きかったとも言われている。対照的にギリシャは男性30歳、女性15歳で結婚し、妻は殆んど社会生活に参加しなかった。

 ギリシア贔屓のヘーゲルは「歴史哲学」(1837年)において、「ローマはそもそもの初めから作り上げられたもの・・・・・・・・・、暴力的なものであって、自然発生的なものでなかった」と規定する。
 「ローマの丘には早くからそれぞれの首領に率いられた牧人達が彷徨ほうこうしていたという点、そこでローマの最初の共同体は盗賊国家の形で結成されたという点、したがってそこから多くの困難を重ねて近隣に散在する住民を共同生活に統一して行ったという点では、歴史家の意見はみな一致している。この状態の一々に関しての詳細な記述も存在している」と述べ、ローマの素性についてあまり好意的ではない。
 「近隣の国家は、また神祭への招待をも拒絶した。ただリヴィウスのいうように、悲しむべくまた怖るべき迷信が支配していたところの、素朴な耕作民族であったサムニウム人だけが、一つには迷信から、また一つには恐怖から、この祭に参加したにすぎなかった。そこから起ったサムニウム女の掠奪も、また一般に認められている歴史的事実である。その事実の中には、宗教が若い国家の目的遂行のための手段に利用されたという極めて特異な性格が物語られている。」と述べる(歴史哲学「ローマの成立と国状」)
 ここに登場するサビーニー人ないしサムニウム人は同一の民族ではないようだが、前者が後者に属することを前提とした説明になっている。モムゼン「ローマの歴史」の訳者による歴史地図では、サビーニー人の本拠であるレアテの町は、都市ローマから東北方向へ距離にしてせいぜい80kmの近さの山岳地帯である。このモムゼン「ローマの歴史」の第一編のエピグラフには、トゥキディデスからの引用として「・・・しかし検討の結果、大体において私には信頼に足ると判明した確かな証拠から、昔のことは、戦いに関してもまた他のことに関しても大した規模ではなかったとの見解に達した」という句が揚げられている。当時の出来事を、言葉に書かれている通りに現代風に類推しては、事があまりに大きくなり過ぎるのかも知れないのである。

 いずれにしても、ローマの建国伝説、建国史には、本邦の古事記や日本書紀にみられるような自然と人間の交感、男と女の機微、歌謡と象徴など古典的、神代的な優雅さは全くみられない。
 ヘーゲルは言う。「初期のローマ人達は、その妻を自由な情愛と求婚とによって得たものではなく、暴力によってこれを掠奪してきたものである。この自然的な人倫の感慨を無視した野蛮きわまるローマの初期の生活態度こそ、その生活にいつまでも付きまとう特徴的な要素であって、それはすなわち家族関係に対する冷たさ、我利我利の無情として、後のローマの慣習と法律との根本規定となったものにほかならない」 (歴史哲学「ローマの世界」―人倫性)。つまり「ローマ人においては生活の散文・・が現われた」と言うのである。これすなわち婚姻そのものが民法的なのである。

(2014.4.20 記)