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イッセイエッセイ

940号 ローマ史論 第三巻(四十一章~四十九章終り)

2014年04月06日(日)

 蓋し總じて祖國の安危の懸つて存する方策を評議するには、それが正しからうが正しくなからうが、或ひは道にかなはうが残虐であらうが、公明正大であらうがなからうが一切これを顧慮する必要はない。あらゆる遠慮氣兼を棄てて、たゞひたむきに祖國の命を維ぎ其の自由を保つ方策に專念すべきである(第四十一章)。

 ローマがサムニウムとの敗戦包囲にあって、軛をかけられ丸腰で帰還させられる屈辱的な約定を結んだが、これは玉砕をさけ瓦全主義をとることにより、国家捲土重来を期したためである、とマキアヴエルリは評価する。

 腕づくで強いられた誓約を守らなくとも恥じにはならないといふことが之である。つまり強要されての誓約は、それが國事に關する限り國力が回復して之を守る必要がなくなつた場合、これを破つても其のひとの恥じにはならない。(第四十二章)。

 (前章に対する解答)

 賢人たちの常々言ふやうに、世上必ず起るべきことを察知するには過去を省みれば足りるのだが、これは決して氣まぐれな無理な立言ではない。この世のあらゆる物事は時代の如何を問はず常に古代のそれと似通つてゐるものだからである。その抑〻の因はと言へば、人事萬端すべて今も昔も變らぬ同じ情念に動かされてゐる人間の仕事ならぬはないのだから、同じ結果が齎されることにならざるを得ないといふ事情に基づく(第四十三章)。

 或る国民が永年のあいだ同じ悪風を守っていることを、古代のガルリア人、当今のフランスにだまされたかつてのトスカナ人、当今のフィレンツェ国を例としてあげる。

 君主が他人の持物を手に入れたいと思ふ場合、四圍の事情の許す限りあれこれと評議をする暇を與へず、咄嗟のうちに考へを決めなければならないといふ氣持にさせる必要がある。それには相手のものに自分の申出を斷るか或ひは思ひ迷うてゐれば、忽ち其の身に危難が降り掛ることを會得させれば、いつもうまく事が運ぶものである(第四十四章)。

 蓋しデキウスは勢凄じく全力を傾けて敵勢に攻めかゝり、ファビウスはたゞ相手の攻撃に持ち堪へただけで、攻めかゝるのは短兵急にやらず合戰の終りまで手勢の力を蓄へ、敵が始めの頃の旺んな闘志を失ひ或ひは上述のやうに憤激の情がすつかり冷めきる時まで待つ方がいゝと考へてゐた。合戰の成果から見て、ファビウスはデキウスに比べて遥かに賢明だつた。(第四十五章)。

 合戦に当って初めから強烈に攻めたてる(デキウス流)よりも、始め敵の襲撃を防いで後こちらから攻めかかる方(ファビウス流)が、秀れている、という。

 極く年弱の頃から、或る物事がいゝとか惡いとか教へられさへすれば十分だ、といふのも此の考へが魂に刻み込まれ、長じて後に其の生活において何時も己が行動の規準となる(第四十六章)。

 同じ一つの都の中でも家門の違いによって、その家系の人物の風格や性格が違うのは、血筋だけの話ではなく家庭、教育の違いである。

 善良な市民ともあらうものは祖國愛によつて私怨を忘れなければならない(第四十七章)。

 軍勢の大將といはれるほどのものは、敵がわざとやつて見せる手違ひに釣り込まれてはならないことが分る。かういう時には必ずや計略が巡らされてゐるものと考へねばならぬ。いくら間抜けだといつても常軌を逸してゐるとは思はざるを得ないからである(第四十八章)。

 大きな都では日がな毎日何かしら醫者を呼ぶ必要のある椿事が持ち上り、事が重大だと彌〻腕の冴えた國手が入用になるのは避け難い事實である(第四十九章)。

                                    ―第三巻終了―

(マキアヴエルリ著「ローマ史論」大岩誠訳 岩波文庫1~3巻 1950年)

(2014.3.31 記)

(感想)この「ローマ史論」を読んでいちばん感ずることは、紀元前の数百年前からローマには大衆(市民)がいて、政治や戦争に対しても自から意見をもって影響を与えていたという史実である。これは原著者リーウィウスがそのように描いたから、ローマがそうなのではないように思える。また戦いの描写が明瞭なのは、日本の古代史などとはずいぶんに趣きを異にするものである。
 訳者(大岩誠)の巻末解説において、ローマ人は政治的実践において、「民主主義的確信」を保持して自己の力量を十分に発揮した、と述べる部分と深く関係しているのだろう。
 なおマキアヴエルリの政治思想については、国家の廃頽を匡正するために実際政治の経験によって政策を究明すべきで抽象的な理想は役に立たないという考えを実践した、と要約する。
 本書の欠陥として殊に目につくのは、ローマの史実についてリーウィウスの誤謬を著者マキアヴエルリが無批判的に受け容れているところにあるとも、述べている。