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イッセイエッセイ

939号 ローマ史論 第三巻(三十一章~四十章)

2014年04月06日(日)

 境遇が變化して、或るときは有頂天にさせ或るときは失意のどん底に押し込める場合にも、かやうな人物は些かも動揺せず、いつも變らぬ堅固な心持をもち、常住坐臥の振舞も其の心映えに乖くことがないので、誰であらうと世人は、運命が其のひとたちを左右する力をもつてゐないことを會得するのである(第三十一章)。

 上記は、前四世紀時の、独裁官カミルルスの指揮の様子を述べたもの。もう一つの例、スキピオ将軍はシリア王アンティオコス三世に対し、先方の和睦申入前も、一戦して勝利した後も、同じような返事を相手に与えた。「ローマ人は戰さに敗れても意氣は衰へず、勝つても傲らないものなのだ」と。

 人民か或ひは君主が心から反目するように仕向けようと思へば、實のところ誰かを煽てて、その男がどうしても手を握りたくないと考へてゐる相手に根強い謀叛心を懐かせる以外に、確かで手堅い方法はないものである。それといふのも仕置の恐さが薄らげばそれだけ、自分の無道さ加減が恰も相手にとつて相應しいことがらであるかのやうに思はれて來るからである(第三十二章)。

 ローマ人たちは宗教心によつて其の軍勢に此の自信をもたせた・・・神々が御味方ぞと軍兵たちに先づ納得させておかなければ、たわいない負け方をするものだと堅く信じられてゐた(第三十三章)。

 しかし、勇気、規律、確信などの武勇を欠いては、鳥トなどの行事を貴ぼうとも何の役にも立たない。

 元來人民が誰かを選び出す場合、その人物が未だに何の仕事もして見せないときには、世間の噂とか評判などを探つて見るものであつて、かやうなことがらは一寸した拍子に生れて來るか或ひは其の人物が世人に與へる印象が因になつて出來上つたりするものなのである。(第三十四章)。

 共和国で名声を挙げ市民の信頼をうるためには、その人の祖先の偉大さ、世評のある友人への仲間入り、そしてみずからの非凡で眼につく仕事、の三つがある。そして最後のものが何よりも重要であった。

 蓋し人間は其の結果の如何によつて物事の可否を判斷するものであつて、惡い成行きになれば相談役を責め立てるし、その結果がよくも別に恩賞を與へるわけでない。しかもよしんば恩賞に與つても、責め立てられる危險に比べれば微々たるものなのである。(第三十五章)。

 先頭に立って提言することは、並々ならぬ大きな危険を伴うので、穏かに控目の態度で行うことが大事である。また言わぬが花とおし黙るのも、自分が無用の長物と化す。しかも、言うべき時に沈黙していて、終ってから言うのは、お喋りとして厳しい仕置をうける。

 現在の民軍が果して嚴肅神聖であるか、或ひは單に盲滅法な行き當りばつたりの群集であるかどうか、・・・ローマ人たちのやうに訓練によつて勇氣を養ふとかは夢にも思へず、たゞガルリア人と同じに暴虎馮馬の狂猛さをもつにすぎないことなどが直ぐに分るのである(第三十六章)。

 軍勢のレベルは三種類に分かれ、士気旺んに軍規正しかったローマ軍、軍規のない勇猛なガルリア軍、生来の勇気なく鍛錬されたこともない当今のイタリアの軍勢、に分れると述べる。厳正な規律によって士気と勇猛心を盛んにし、必勝の確信を懐かせる鍛錬が必要であるという。

 一方で大きな不便を忍ばなければ、他方で何の苦もなく善果を受用することができぬものなのである。しかもこれは人間の營むことなら何にでも附いて廻るもので、かやうに慘憺たる苦心の末に善果を得るといふのも、實は運命が諸君に惠みを與へ、この特に珍しくもない天然の不利不便を其の力で克服して呉れるからのことである(第三十七章)。

 何の苦もなく善果を受用できぬことは、人間の営むことに何でも附いて廻るものであり、善悪二相の伴わないものは先ず皆無である、という。
 全く勝手のわからぬ新手の敵とぶつかる場合、ローマの賢将たちは、功罪半ばする危険はあるが、小競合をしかけて味方の恐怖心を取り除いたり、敵勢を身近に実見させて勇気を持たせるなどの方策をとった。

 偉大な大將たちですら、百戰錬磨の古強者が馴れない敵を相手に戰はうとするときには、世の常ならぬ方策を講じて士氣を鼓舞するとすれば、未だに一度も敵にぶつかつたこともない新參者を引具して戰ふひとが、別して其の秘策を用ひなければならないのは當然であらう(第三十八章)。

 「者共、わしは口ではなく此の腕で、どうあつてもお前たちが随いて來ずにはゐられぬやうにして見せう。此のわしに下知だけではなく、實地にやつて見せて呉れと言ふがよい・・・」ウァレリウス・コルウスのサムニウム戦での檄語(リーウィウス「ローマ史」)

 軍勢の大將が知らねばならぬことは數々あるなかに、地形と國情とを心得てゐるのが殊に必要である。蓋しかういふ特殊と一般とに亙る心得がないと、軍勢の大將は何をしても十分な働きぶりを見せるわけにはいかない。それに總じて學問なるものは永年の修業を積んで初めて手に入れられるのだとすれば、右の心得は何ものにも比べられないほどの修業をしなければ體得できないものなのである(第三十九章)。

 この心得を身につけるのに「狩猟」ほどふさわしいものはない、と述べる。「ひとつの國に通暁してゐると容易く他の一國の様子を察知することができるものだからである」

 日常生活で欺討ちを喰はすのは洵に唾棄すべきことであるとは言へ、合戰に臨んで此の手を使ふのは推賞すべき善行なのである。つまり此の手で敵を打ち破るものは、打物とつて勝戰さをしたものと同じやうに推賞せられて然るべきである(第四十章)。

 信頼し得ない敵に使う戦さの駈引きの「計略」を述べている、に過ぎない。

(2014.3.30 記)