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イッセイエッセイ

929号 道徳の発端

2014年03月23日(日)

 朱子学は『理』(法則・秩序)と『気』(エネルギーと物質)の二元論であり、これを「心」にも「物」にも適用する。この「心」のうちの「情」として『気』が、「性」として秩序づけられて動いておれば『理』であり「善」である。人間の心が本来の法則にのっとって動くとき、『理』が実現しており、「道徳」的なのである。
 『気』の歪みやアンバランスを、『理』にのっとった動きにすることが、「学問」―古典による正確な『理』の把握―であり「修養」―意識している現象に敬虔な気持で接し続けること(居敬あるいは持敬)―なのである。
 朱子学は、万人が聖人に到達できるという考えであったから、どこでも誰もが思想的な行動ができるという功績をもたらしたが、誰でもということから反面として厳格主義、道徳主義に傾き、一物一理でもあるから不寛容につながっていたという問題を有していた。かつ『理』の強調が説かれたものの、かえってそれが体制主義、世間主義におちいる危険があった。そのため、朱子学は道徳的かつ教条主義、原理主義のイメージが固着していった。
 中国の儒学史において、漢から唐にかけての訓詁学と、宋から明にかけての義理学(宋の朱子学、明の陽明学)への変化がある。これをもとに、宋以降が中世とは区別された近世である、という考えが出てきた(内藤湖南の説)。これの区分によれば、日本では江戸時代、朝鮮は朝鮮明朝からが近世となる。これらの時代区分は、哲学性ないし思想上の創造性において、仏教から儒学への優勢さの移行変化に対応する。
 朱子学(朱熹)は、①自然(存在)と規範(当為―朱熹はこれを先とする)、②内心と外界、③善と悪、④個人と社会(格物・致知・誠意・正心・修身<以上は個人の修養>、斉家・治国・平天下<以上は社会への感化>)、⑤道徳(天理)と欲望(人欲)、⑥主観と客観、という六系統の議論軸をもつ。
 朱熹は、善と悪の対立以外は、これら対立項の一体ないし連続を説いたので、後代の朱子学批判は、結果としてこの連続性や漠然さの論理を発端にして、徐々に一体性を解体させてゆく議論展開になった。
(「江戸の朱子学」土田健次郎著 2014年筑摩書房から)

(2014.3.16 記)

 現代の教育における「心の教育」、「いじめや不登校」、「他人への思いやり」、「道徳の教科化」などのテーマの論じ方や実際の問題意識を考えた場合、善悪もふくめて混然一体視しており、区別のないまま混乱している状態である。