西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

920号 ローマ史論 第一巻(四十一章~五十章)

2014年01月27日(月)

 たとへ暫くのあひだでも有徳の士と見られてゐたひとは、たとへ思ふ存分にその奸惡非道の本性を現はさうと考へたにしても、小刻みに變つて行かなければならない(第四十一章)。

 アッピウスの激しい変化を悪例に出しながら、人民への対応を変える場合には機会のある時ごとにこれを巧みに捉えて実行すべきと言う。

 十人會は、敎育によつて敎養を與えられていようとも、いかに手もなく堕落してしまうものか、また、どんなに素早く人がらが變つてしまうものかといふ事實を見せてくれる。こういふ事實を篤と調べれば、共和國や王國の立法者たちは、今までよりも活発に人間の情慾を制御したり、その動くがままに行動しすれば罰せられると思わせなければならない(第四十二章)。

 善良であった人間も簡単に条件が変ると堕落するという性悪説である。

 十人會の廢止後、自由な空氣のなかで戰ふやうになると、忽ち昔ながらの武者ぶりを示し、戰さに勝てば昔の仕來さりどほりに榮冠を授けられることになつた(第四十三章)。

 十人会時代の傭兵制の無力振りと、自身の栄誉のために戦う人民兵の重要さを述べている。

 何か一つのことを求めるのに、開口一番、我輩は諸君の利益に反して行動するのだなどと揚言するには、どんなに軽率な馬鹿げた振舞であるかがはつきり分る。決してかういふ風に頭から自分の肚のなかをさらけ出してかゝつたりしてはならない(第四十四章)。

 何といつても國家にとつて一ばん不幸なのは、國民が仲間うちの誰彼にむかつて日毎に新しい憎しみを感じること、ちやうど十人會のあとを承けたローマのやうな有様になることである(第四十五章)。

 市民への脅迫や弾圧を絶えず感じさせる政治は、人間を無鉄砲にしてしまい、為政者にとってこの上もなく危険である。

 人民にしても貴族にしても相手が穏やか態度を示すと益々傲岸になつた(第四十六章)。

 紀元前1世紀の史家サルルスティウスが書いているように「どんな悪い前例でも始めはよいものである」。どのような害悪も早手廻しに予防することに全力をあげるべきと言う。

 この混亂状態が人間の仕業ではなく時代の所産だと悟ると、急に今までとは打つて變つた言動をするやうになる。それといふのも世の中の物事は之を手にとつて味はへば曩に漠然と豫想してゐたときよりも遥かに親しみを感じ得るものだからである(第四十七章)。

 (この章の論旨は混乱があるようにみえるが)人民は大衆として考えると間違いをおこすが、一人ひとりになって考えさせれば過ちは少ないのであって、とくに役職の任命や賞罰においては誤りが少ないものだと述べている。

 悪辣な或ひは無能な者が役人にならぬやうにしたいと思ふなら、それより一層悪辣無能の連中に、また、逆に善良有能なひとたちにもその役目を熱望するやうに、仕向けなければならない(第四十八章)。

 奴隷の身分に生れついた都が文明開化の平穏な生活ができるやうな制度を作るには、困難だといふより寧ろ不可能であると分つても毫も恠しむに足りない(第四十九章)。

 フィレンツェ市の隷属性ヴェネツィア市の自由さ。

 都においては通常の場合、小人數のものに國家の存立上必要と認められる權力を何ひとつ任せてはならぬ(第五十章)。     

(2014.1.25 記)