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イッセイエッセイ

913号 ヒルティ著作集10(人間教育)のエクストラクト(3)

2014年01月18日(土)

「新聞界の教育について」(1903)
 「新聞記者の中には、右にのべたすべての考え(、、、、、、)(※注 新聞記者を養成するために、これに適した施設において勉強できる環境を整え、そのための費用を、国家またはこの仕事に携わる人々の自由な団体が提供すべきであるという考え)に反対(、、、)する人のあることが時々あり、われわれもこの抗議を正しいと思う。すなわち彼らの職業は本質的に一つの芸術(、、)であり、これを職業的に習得することはできないというのである。」(161頁 注記小生)
 「しかしこの芸術は基礎として、また必要な補助手段として、やはり知識(、、)を要求する。これは(、、、)修得のできる、またしなければ(、、、、、)ならぬ(、、、)ものであり、今までのジャーナリズムに対する非難も、あまりにもこの知識が、あるいは正確な知識が欠けているという、まさにこの点にあったのであって、これには理由がないわけではない。」(161頁)


 「(著者注記)なおあの『反抗精神』というやつも加えてよいであろう。これがしばしば編集者たちをそそのかして、ただそれが愉快だというだけの理由で、悪いことを弁護させたり、一般に認められている単純な真理に反対させたりする。彼らから見れば、そのような真理はあまりにも平凡なので、いかなる代価を払ってでも、もっと機知に富んだものを求めなければならないのである。」(164頁)
 「真理は明らかにその中間に横たわっている。新聞は事実いまでは一つの力であり、そのような力の持つ光と影のあらゆる両側面をそなえている。これを無視したところで大して助けにならぬであろうし、少くとも政治的新聞に向って、文化国の中でこの力を持続的にしっかりおさえつけておこうと望むことは、できない相談であろう。」(165頁)
 「新聞は疑いもなく、多くのよからぬことを生み出し、くだらない、虚栄的な、貪欲な目的のために、時には全く拒否すべき目的のためにすら、非常に悪用されることがある。しかし新聞は、多くのよいことをも生み出し、(中略)今では国家の諸問題についての最後の決定権は、それがどのような形を取るにせよ、大体大衆の手中に横たわっている。」(166頁)
 「もっと長い眼で見れば、輿論の中でもやはり真実なこと、堅実なことだけが力を得て、見せかけや宣伝に類するものの寿命は本当に短い。輿論の今日最も普通の担い手である新聞も、この世界法則にさからって行動することはできない。」(同頁)
 「『わたしたちは、心理に逆らっては(、、、、、)何をする力もなく、真理に従って(、、、)のみ力がある』」(※使徒パウロの言葉 167頁)
 「(著者注記)ある一定の時の経過することが必要であり、対象が大きければ大きいだけ、より長い時が必要である。比較的些細な場合には、非常に早く正しい判断が行われる。」(同頁)

※ウォルター・リップマン「世論」(1922)から、「真理の中には特殊な力があるから、意見が競に合った場合は、もっとも真理に近い意見が勝ちをおさめるという信念である。十分長い時間をかけて論争をする場合なら、これはおそらく健全な考えであろう」(岩波文庫(下)166頁)

 「新聞は、これなくしてわれわれ自身では見ることができないような、またほかの報道からではもっと苦労をしてやっと手に入れることができるような、実際の諸事情をわれわれに知らせる限りにおいて、われわれすべて(、、、)の者にとって有益な力である。」(168頁)
 「少くとも私は生涯いつも『何々新聞』を、一種の非人格的存在として見たことはなく、その背後にいつもA氏あるいはB氏を見たのであって、その意見も私は、個人的にその人の意見として、彼にふさわしい価値だけをそれに認めたのである。」(169頁)
 「殊にロマン系の諸国民は、形式に対する不幸な崇拝心を持っている。」(同頁)

※「印刷物の魔術」は今でも多くの素朴な心に対して力をもっており、徐々にしかなくなることが期待できない。フランスまた他の国にも真価以上の価値を得て国をしばらく害した記者の例をヒルティはあげる。

 「真に偉大な事と善い事はすべて、新聞に大きな騒ぎを起すことなしに、小さく始まる。」(170頁)
 「新聞によるどんな攻撃も、道徳的に無瑕な人を、いつまでもそこなうことはない。むしろ誇張された賞賛の与える害の方が大きい。」(同頁)
 「(※ロッシの言葉)『政治家は、いわば空想や抽象の産物であるかのように、自分を見るところまで来なければならぬ』」(171頁)

※ヒルティは続けて、新聞の人物評価が人々の評価と反することは、しばしば起ると記す。

 「(※テーヌの言葉)『政治において一つの行動を取る前から、どの新聞はあなたを非難し、どの新聞はあなたに賛成するであろうということは、前もって分っている。』」(同頁)
 「(テーヌの言葉)『その人々にとっては政治上の些細な事件などどうでもよいような、愚かな大衆に有利な印象を与えることである。……社会の低い層に一つの運動が起れば、それは海の奥底から湧き起る大波のように恐ろしい。』」(同頁)
 「ここに新聞の持つ最大の力があり、新聞と功名心は、前者が後者を呼び起し得るほどに、密接な人間的結びつきと共通の理念とを、相互の間に持っている。そして新聞のこの(、、)影響に対して、すべての自主的な人々が抵抗しなければならない。」(172頁)

※自分の名前を世間に頻繁に聞かせ、時間をかけるうちに、いくらか値打ちのある人間だろうと、多くの馬鹿者が考えるようになる程度の成功をヒルティは指している。

 「次のことはわれわれの慰めである。見せかけのことは、たとえばどんなに巧妙になされても、おかかえの新聞からどんなに強い支持を受けても、長もちしない。これに反し、真理は結局最後には勝を収める。同様に、見せかけの上の基礎を持つ結合も、長続きしない。」(173頁)

※悪い人々の間の友情は午前の影、義しい人々の友情は午後の影(東洋の詩として)

 「(※トックヴィルの言葉)『読者が聾になるからこそ新聞は叫ぶのであり、読者のこの聾こそ、刑事裁判官の助けを借りないでも、やがてこの新聞を沈黙させるものである。』」(174頁)
 「本来出版の自由が実際に保護すべきものは、ただ政治的報道と検閲だけであって、これは大衆の単なる娯楽の要求が、無制限に満たされるためのものでは決してない。」(175頁)

※ここからは、当時としての新聞事情の本当の先機的な諸点として挙げられている

 「精神も肉体も全く同様に、もしこれを次第に萎縮や退化しないようにしようと思えば、日々の栄養補給を必要とする。(中略)しかし充分に実質のある栄養は、決して新聞だけでは供給されない。」(同頁)
 「人はこれによってある一つの対象を、より真剣により深く把握しようと期待してはならないし、また次第に精神的無気力に陥りたくないと思うならば、あまり新聞を読みすぎて、対象をより真剣により深く把握することを、幾分見失うようなことがあってはならない。」(176頁)
 「直接政治的あるいは社会的な、団体や階級によって設立され、それに(、、、)仕えるという目的だけを持っている新聞は危険である。」(177頁)
 「直接買収され(、、、、)経済的支持を受けている(、、、、、、、、、、、)新聞は、はるかにもっと危険である。」(同頁)
 「販売価格が低いために、ただ新聞広告というコルクの帯でとり巻かれているおかげで、やっと水の上に浮かんでいられるのである。この広告それ自身が、新聞の精神的独立の維持を困難にしている、と私は言うつもりはない。よく知られているように、フランスの新聞は、全くほんの少ししか広告を載せないが、そのために部分的には、資本主義的影響を、より多く受けるようになってしまった。これがパナマ騒動をきっかけとして明るみに出され、人々を驚愕させたのである。」(178頁)
 「経済的目的のために輿論を腐敗させ欺くこと(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)が、こんなにふえつつあることが、現在の国家生活最大の危険(、、、、、)であり、このままで行くと、いまだかつて世界になかったような、金力支配の時代が来るであろう。」(180頁)
 「最後に、新聞が好んでセンセーションをまき起す傾向(、、、、、、、、、、、、、、)も、読者に悪い作用を及ぼし、読者がセンセーションを喜ぶことが、再び新聞に悪く作用する。」(181頁)
 「もし教育によって本当に成果を収めたいと思うならば、先ず第一によい教師が養成されねばならぬということだけが、どの教育においても変ることのない真理である。これが、新聞記者の学校を作れという、現代の要望の根本思想である。」(185頁)


 「政治的出版の自由は、すべてのいわゆる個人的権利と同様に、革命的な起源を持っており、スイス連邦においても、最近の時代に至るまで危険なものと見られていた。」(187頁)
 「なぜならば新聞はたいてい、さしあたり関心を持たざるを得ないことについて、誉めたり非難したりするのであるが、その時の一時的限界を越えた理念を持ってはおらず、その意見の大部分は、一時代も経たないうちに、大した意味のないものになってしまうものだからである。将来の歴史家が、スイスに関する知識を、ただ連邦図書館にある新聞の抜萃だけから得ようと考えるようなことがもしあるとすれば、それは遺憾なことだ。」(202頁)
 「普通世間にある日刊新聞は、人間や政治的・文学的諸現象に対して、唯一の正しい価値判断の基準になるには、全然適していないものである。」(同頁)
 「高い道徳的責任の中に、新聞本来の真価、その栄光の生命的要素が横たわっているのであり、また新聞は従業員に生涯の使命を与えるという、大きな共同の課題にたずさわっているのだという理念を固く支えるものも、この道徳的責任の中にある。この意識こそは、結局のところ新聞を―それと共に生れ、それから決して離れることのない―営業的要素以上に、すなわちその経済的な身体以上に高めるものである。」(205頁)


 「よく書く技術(、、、、、、)は時としてあまりにも高く評価され過ぎることがあるが・・・()をこんなに高く評価することにおいて、フランス人はただ支那人にひけを取るだけである。」(206頁)
 「文学作品およびその作家たちが、こんな具合に重きをなすことは、どの国にとっても一つの不幸である。」(207頁)
 「将来のまったく正しい書き方は、叙述の中に温かさと明瞭さとを結び合わせる、中庸の道であろう。」(208頁)
 「第一の原則は、言うべきことを持ち(、、、、、、、、、)それをみずから正確に(、、、、、、、、、、)知り(、、)、また他の人々に伝えることの重要性をみずから確信する(、、、、、、、、、、、、)こと(、、)である。」(209頁)

※以下は良い書き方(・・・・・)の原則についての記述である。確信、秩序、普通、単純、明瞭、真理、無私

 「(※ウィリアム・ペンの言葉)『真理はしばしば、その反対者の議論よりも、その擁護者の熱によって、より多くそこなわれる。』」(210頁)
 「真理はひとりで、どんどん自分の道を拓いて行く。」(211頁)
 「よい理念に絶えず人々の関心を呼び覚まし、これを主張すること、しかしその遂行は、そして同時にその栄誉も、これを他の人人にゆだねること。栄誉というものは、大抵あとになってはじめて、しかもその思想の創始者ではない人の許に、落着くものである。『一人が蒔き、他の人が刈り取る。』人の生涯は、この両方をひとりで兼ねるには、たいてい短か過ぎる。」(213頁)
 「教育によって彼に植えつけることのできるものは、徹底した学問的思索を行う精神と、日毎の仕事の中に沈没してしまわないで、大学でただ始めただけに過ぎない研究を、後になっても続けて行く習慣とである。こういう(おもり)でつり合いを取っておかないと、消耗させて行く毎日の務めによって、人間は次第に浅薄になって行き、あまりよくない記者は、簡単にだめになってしまう。」(214頁)
 「大事なことだけに向う、ということである。これによって、本当に学ばねばならぬ教材が、どんなに少くなるかということは、これを実行するすべての人を、驚かすであろう。この原則を実行すれば、その時代の教養の全体を自分のものにすることすらも、ある程度までは可能であり、またこれは、スケールの大きい新聞記者には、欠くことのできないものと見られていることである。」(同頁)


 「だから議会政治に代って、次第にジャーナリズムが登場することになるであろう。」(224頁)

※100年後の現在を予言する形で書いているのである

(2010.5.27記)

(2014.1.12追記)