西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

911号 ヒルティ著作集10(人間教育)のエクストラクト(1)

2014年01月18日(土)

 教育が単なる個性教育、あるいは国際人教育ではなく、国民教育であるべきこと、家庭教育の重視、自己教育の継続を主張する。(2014.1.12追記)
「スイス的教育の根本思想について」(1893年)
 「ある国民の幸福を左右するものは憲法ではなく教育上の諸施設であるというプラトンの主張は、あたかもわが国においてその真理性を立派に証明されたかのように見えることが本当にしばしばある」(9頁)
 「わが国民の教育の全般が、この目的のために幾世代にもわたって休みなき努力と犠牲が払われて来たにもかかわらず、われわれの期待にそむいてなお無条件に満足すべき状態にはないと感じられる」(同頁)
 「既存の諸施設のための補助金をなんの制約もなくそれぞれの州に与えることをもって満足することは困難であろう。それゆえ、将来すべての教育施設にわれわれが何を要望(、、)しようという考えであるかを、正確に腹臓なく言っておくのは望ましいことである。」(10頁)
 「どの国民も、個々の人間と同様に、自然(、、)がそれを与えた自分(、、)の類型(、、、)に応じて教育されねばならないからであり、汎人類的類型、あるいは具体的に言って一般的人間性なるものは全く存在しないからである。存在するのはただ国民的諸類型だけであって、これは一部は素質から、一部は歴史によって出来上がるものであるが、これをそれぞれの国民は、各個人の場合と同様に、可能な最高の完成にまで形成して行かねばならない。」(11頁)

※国民性を離れた教育理念はない(グローバルな教育についての問題)

 「(著者注記)(キリストは)きわめて全人類的意味を持っていたにもかかわらず、自分は己が民イスラエルの失われた者のほか誰にも遣わされたのではない、と公言することをはばからなかった。」(同頁)

※I have been sent only to the lost sheep of the people of Israel.(Mat.15-24)

 「世界国家は、政治的(、、、)にも常に大きな後退であり、従って真の文化の妨害物であった。比較的小さな(、、、、、、)国々が自由の擁護者である。」(同頁)

※日本は小さな国か、大きな国か、ふつうの国か

 「わが国民をわれわれの国家のために教育しようと欲するのであって、一般的世界文化のためではないのである。」(12頁)

※個人を個人自体の自己目的にために教育する考えではない

 「スイス的類型とは、何かある種の型を洗煉酵化したものではなく(そんなことがわれわれにうまく行くわけは決してない)、右に引用したミュラーの言葉(ヨハネス・フォン・ミュラー:歴史家、「彼らは善良な誠実な国民であり、大きな危険に際して最も偉大であった」という言葉)に従えば、単純・誠実・忠実・力の自覚・新鮮な勇気および喜んで人を助ける高潔な心である。従ってまたスイスの教育もここへ(、、、)人を導かねばならないし、これに反するすべてのことを避けるように人を助けなければならない。」(同頁)
 「互に補い合いつつ人をここへ導いて行く自然的人間形成の諸段階は、最初に準備的役割を果す家庭教育(、、、、)、その性質上多くの諸段階に分れている充分な学校教育(、、、、)、そして最後にこの両者によって導入された自己教育(、、、、)の三つであって、この最後の段階を欠けば、すべての学校や教育についての制度は、人生に対する正しい成果をもたらさない憐れむべき未完成品であるに過ぎない。」(同頁)

※わが国の分類では、家庭教育、学校教育、社会教育(生涯学習)


 「教育はつまり人間に、彼が自分自身の中からいつかは得るであろうところのものを、ただいっそう速やか(・・・)にかついっそう容易(・・)に与えるだけである。教育はしかし人間にすべてを一度に教え込むことはできないから、どのような秩序の下に、どのような順序で、人間の個々の力を引きのばすべきかということが大切な問題だ、と彼(※注 レッシング)は言うのである。」(13頁 傍点、注記小生)

※「()えて(かし)こかれ!」、「自分自身の慣性を使用する勇気をもて!」―これがすなわち啓蒙の標語である(カント)

 「われわれの国家は、個人または何か或る産業上あるいは経済上の団体の上にではなく、家庭の上にその基礎を持つところの歴史的構成物なのであって、それ以外の国家形態を、われわれは実現可能だとも望ましいとも思わない」(14頁)
 「家庭教育は(、、、、、)七歳か八歳に至るまでは唯一の教育であり、成年に至るまで公けの教育と(きそ)い合うものであるが、その大きな課題は、一方では既存の身体的素質をできるだけ強力にひきのばすこと、他方では子供の成長していく魂の中に、すべての善いものと美しいものに対する感受性(、、、)、これに反するものに対する嫌悪(、、)、およびこれらの好みや嫌悪を自分自身に対しても差し向けることのできる強力な意志(、、)、を生み出すことである。」(16頁)

※家庭教育(福井では幼児教育と呼ぶ)の重要性

 「いろいろな魂の病気は、すでに非常に早くから現れはじめるものであり、きわめて注意深く予防しないと、すでに幼年時代の始めに、後でどんなに反対の教育を行ってもどうにもならぬほどの強さに達することがある。」(同頁)

※すべてのことにも当てはまる、手遅れ

 「教育は、それが人間の中に生来の素質のままで維持できなかったものを、ほとんど廃墟の上に再び苦労しながら築き上げねばならない羽目(はめ)に陥る、というただ一つの言葉によって、人間教育の悲惨のすべてが言い表わされている。」(17頁)
 「人間らしさは、動物とは違って、理性と良心が真なるもの、善いものとして承認せざるを得ないものに対する服従、しかも全く自発的な、終にはいろいろな(この)みによってももはや妨げられない服従、に在るからである。」(同頁)
 「生涯の最初の数年間に、不充分な家庭教育によって全くなおざりにされたならば、後になってそれを完全にとりもどすことは不可能である。」(同頁)
 「有能(、、)な人にはなるであろうが、太陽のようにあかるい、明朗な人間になることはない。最も幸福な人間になるために必要なこれらの性格を残すことが、最初の幼少時代の課題であり、人間というものをよく知っている或る人の真理の言葉にも述べられている通り、人間の一つ一つの生の段階は、その特殊性の何ものかを後に残して行かねばならない。幼少時代は、明朗さ、快活な心、人間に対するゆるぎなき信頼、子供独特の柔軟性を。青年時代には、高揚した心をもってすべてを捧げることのできるような感激性を。壮年は、熟慮と行動に際しての確実性と思慮分別を。老年は、成熟しきった人生の静かな叡知を残さねばならない。これらの要素のうち何かが欠けると、完全な(、、、)人間はでき上らない。彼の生涯のある時期がそれ独特の使命を果たさなかったので、それを後でとりもどすことはできないからである。われわれの教育方法はしかしながら、子供が充分長い間子供であり得ないように、あるいは若者がすでに大人でなければならないようにと、し向けていることがしばしばある。そんな教育のゆえにこそ、老人が、もう手後(ておく)れになってから、もう一度若者になりたいと思うようなことが、きわめてしばしば起るのである。」(18頁)

※教育に要する時間と段階

 「子供に対するこの義務(※注 スイス的家庭を維持し、強化すること)は、後でそれを引き受けることになっている国家に対する義務でもある。これができていないと、後の国立の学校は『感化院』のようなものになってしまう。元来負わなくてもすむような難しい条件の下で、仕事をしなければならなくなる。」(19頁)

 「何が(、、)子供に教え込まれる(、、、、、、)べきかと尋ねるならば、それは少しの善い習慣(、、)だけでよいとわれわれは考える。」(同頁)
 「慣らす(、、、)ことによって、すなわち家庭内で単純にしかし徹底的に継続し、ほめたり叱ったりすることによって達成できる事であるが、両親や家族や奉公人たちの実例(、、)によるのが最も容易である。というのは、強い模倣欲と非常によい観察能力を持っている子供にとっては、実例をともなわないすべての規則は空虚な言葉に過ぎないからである。」(20頁)

※偉人伝を教育に用いることの意味について

 「詩的なお伽噺の世界を本当に信じ込むことでさえ、子供には何の害にもならない。」(同頁)
 「自然がすべての子供に一人の母を与えなかったとすれば、人生の第一期における基礎的教育についてのこれらすべての問題に関して、われわれは今も非生産的なディレタントであったであろうし、人類はとっくに動物的存在に堕落していたことであろう。」(22頁)

※「小児の国家的教育は空想にすぎない」とヒルティは続ける


 「ここで問題になることはさしあたり、成長して行く青少年の中に、われわれが大人になった同胞の中に見たいと願うような類型を育成し、これと並んで、われわれが一般に性格という語で表現している、あの確固たる心情と人間の大きさ(いわばより大きなスケールの人間)を育て上げることである。」(26頁)
 「卑賤なものを軽蔑するこの高邁な気象は青年時代や処女時代の所産であって、もしこれに永続的性質を持たせたいと思えば、特に高等学校時代から後の生涯へと引きつがねばならないものである。」(同頁)
 「青年の心にこの英雄的(、、、)特性―これは本来若さの自然な表われである―を植えつけるためには、正しく活用された古典研究(、、、、)が最も重要な手段であることに疑いはない。」(27頁)

※日本における古典教育の不足、とくに教科書の位置づけについて

 「人間のキリスト教的教育(、、、、、、、、)は収穫の時期になってはじめて開始することができる。この年齢になると、自分の意志や自分の力の不充分であることが、苦しい経験を通して心にはっきりと示されているからである。」(同頁)
 「その際最も大切な事は言うまでもなく、この英雄時代の精神(、、)に人を導入することであって、将来言語学者になる人たちだけに必要とされるような、ギリシア語やラテン語の文法のより正確な知識を与えることではないからである。」(28頁)
 「ツキジデスやポリビオス、また特にエピクテトスのような、ストア派の今でも残っている書物を取扱う方が、はるかにより教育的であろうに、われわれの高等学校(ギュムナジウム)の多くでは、エピクテトスの名前もほとんど聞かれないような有様である。」(同頁)
 「これ(※注 古代の哲学)も人類の青年時代の記録である。」(29頁 注記小生)
 「(著者注記)プラトンの共和国(ポリテイア)やその他彼の多くの対話篇、あるいはアリストテレスの倫理学や政治論を読んだ人で、(もし彼が本当に読んだ(、、、、、、)のであって、ただそれについて聞いた(、、、)だけでなかったなら)一体失望(、、)を経験しなかった者があるであろうか?」(同頁)
 「(著者注記)宗教は歴史的取扱いによってのみ(、、)比較的若い人々に取りつき易いものとすることができるのである。」(32頁)

※歴史的説明による説得性

 「学校の最後の課題は、世の中で身を立てるに必要な知識(、、)を若人に与えることである。そしてわれわれは、このことがいかなる意味においても最後(、、)のものであるべきだと公言することを憚らない。」(37頁)
 「一つには、高等学校(ギュムナジウム)およびこれとは違ったいろいろの教育目標を持つ実業学校の二つに、学校(、、)をもう一度分けること(、、、、、)、第二には教材をうんと制限すること、しかもその取扱いに際しては、本当に人生に役立つもの(、、、、、)に考慮を払うこと、以外に方法はない。」(38頁)
 「仕事の分担と教材の制限が、ここでは唯一の救助手段であり、少くとも十二年そこそこの間に、一人の人間に、しかもなおその上彼がまだ最も大切な肉体的成長期の諸問題を持っている時期に、彼が遠い先の全生涯に必要とするすべて(、、、)の事を教え込むことは不可能であるということを、われわれは理解しなければならない。学校はまさに教育の始め(、、)に過ぎないのである。もしそれが同時に終りであろうと欲するならば(注)、それは自分の目的と人間の本性を見そこなっている。人間の本性は、そんなに勝手気ままに引きのばしたり馴らしたりできるものではなく、次第次第に、ある全く特定の、人の手で促進できない人生の諸段階(、、、、、、)に従ってみずからを発育させて行くような、自然に成長して行く(、、、、、、)性質を持っている。」(39頁)
 「(※著者の上記の注書き)学校のこの『高慢』―その中に祝福は宿らない―には終止符が打たれなければならない。」(40頁)

※「現在の自分を形成しているものの、全く問題にならぬほど僅かな部門を学校で修得したのであって、しかもそこで学んだものの多くは全く役に立たなかった、ということを全くよく知っているのである」と続く。

 「〔われわれが学ぶのは〕『学校のためではなく、人生のためである』(not scholae,sed vitae)という格言は、学校の規則の中ではきわめてしばしば引用させるが。実際に守られることはますます稀である。」(同頁)
 「他の学校でやっていることはすべて自分のところでも(、、)やろうとすることをやめ、その代り性格のしっかりした。道徳的に純潔な、精神的・肉体的に溌剌とした、また何か余計な無用の長物を持たず、すべて役立つ知識だけで装備された若者を国に引き渡そうと、われわれの学校の一つ一つ(、、、、)がきっぱりと決断しなければ、救いはない。」(同頁)

※続いて「この全態勢からの徹底的方向転換を断行する(・・・・)学校は、健康を失わないですんだ生徒たちから感謝されるばかりでなく、祖国全体のこれに対する感謝も非常なものであろう」


 「教育はたとえ最上のものにおいても、未完結の仕事にすぎない」(同頁)
 「(著者注記)教育が正しく行われるときは、まず家庭を通して愛を植えつけることが行われ、次の学校による古典の教養と自己に対する厳格、すなわちかの古代のストア主義がこれに続く。その後に宗教が来る。すなわち自己教育によって神的なものと結合することがそれである。」(同頁)
 「すべての人間は結局三つの階級に分れる。(中略)第三は完全に『この世的な眠りに陥った人々、その思いと努力は、ミケランジェロが世の(いつわ)り(favole del mondo)と呼んだもの以上に出ることのない人々』である。」(42頁)

※第一は神の祝福の担い手、第二は破壊のための器

 「すなわち神の世界秩序が存在するという認識(、、)、それに対する信仰、および自由な服従をもってそれに仕えようとする意志(、、)の両者が結びついていなければならぬ。これがないと、どんな自己教育も大した役には立たない。」(43頁)
 「人間的手段は不充分であることを深く感ずることがそれであり、もしこれを青少年が感ずるとすれば、それは病的であろう。(だからわれわれは、非常な年少期におけるキリスト教の可能性をも信じないのである。)他方では、自分の中の利己主義を克服しようとする固い意志がそれであり、この意志も同様に、自分の利己主義について、すでに悲しむべき経験を重ねた結果としてのみあり得る。」(44頁)
 「(著者注記)また自分から眼を全く外に向けて、他の人々の(、、、、、)ための祝福(、、、、、)になるという美しい課題が、おのずから与えられる。そしていかなる人生の時期も、他の時期のなおざりにされた課題をあとになってから取りもどすことはできない。」(47頁)


 「連邦はだから、殊に次のようなものの補助金のために、その力を分散してはならない。国家の監督を受け容れないもの、現在の業績以上の成果を約束しない学校、どんな方向にせよ反国家的精神を促進するようなもの、あるいは最後に、別に何の目的もなくただ諸州の財政を楽にするための補助金。」(48頁)
 「実のところ連邦の唯一の本当の課題は、国家の最高(、、)教育施設を自分の(、、、)責任として引き受け(中略)この教育の成果は必ず現れるであろうし、これは最下級の学校にまでも及ぶであろう。なぜならば一国の精神的生命は諸大学(、、、)から―もしこれが正しく形成されているならば―出るものであり、大学(、、)はその国に対する本来の基準となるものであるから。」(同頁)
 「われわれに必要なのは、おそらくもっと平凡な、しかし肉体的にも精神的にも健康な少女や主婦たち、自然で単純な人生観を持ち、生活に対する要求はつつましく、いかなる種類の娯楽欲も媚態もなく、家政を合理的にひとりで切り廻す能力を持ち、必要とあらば切りつめた境遇にも自ら入って行くことのできるような、そしてすべて非常な苦痛と緊張にも喜んで耐えられるような女性である。」(52頁)
 「彼女たちの学んで来たものは全く利用されないで忘れ去られ、あるいは少くなった余暇の遊びごとに役立つに過ぎない。」(同頁)
 「(著者注記)『新しきものを耕せ、茨の下に蒔くな。』これが現在(、、)スイスの学校制度に対して与えられている言葉である。」(54頁)

(2010.5.27記)

(2014.1.12注記)