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イッセイエッセイ

904号 易経について(1)続き

2014年01月14日(火)

(※本稿は2012年に初め書いたものであり、その年の卦と愚考した「臨」の卦およびその前段階の「蠱」の卦の説明を例に見ている)

(18)山風蠱(さんぷう  こ)(上九)(六五)(六四)(九三)(九二)(初六)(第二巻 220頁)

 堯帝、漢の光武帝、唐の太宗皇帝、みな多少の蠱を免れなかった。上の人も下の人も元気が振るわないのである。左伝の昭公元年のところに、「周易にありては、女、男を惑わし、風山より落つ、これ蠱という」とある。
 世の中の情勢の回転するのを待つのは無益であり、「大川を渉るに(よろ)し」、刷新せよという。悪い方面から見れば蠱の象となり、善い方面から見れば振民育徳の象となる。蠱は父の蠱である。初六が成卦の主父である。九二は陽にして剛、道徳才能の人物、中の徳をもつ。六五の陰爻と相応じる、六五は柔弱な、君母であり、これにはあまり厳しくしないで、物やわらかにゆったりして善い方に導くやうにすべきである。九三は剛すぎて中を保てないが、大きな咎はない。六四は柔弱、陰爻であり、呑気で優柔不断である。六五は蠱の卦の主卦の主爻であり、柔順中庸なる六五の徳を持っている。上爻の上九は陽にして剛なるもの下にあって応じる爻なし。伯夷叔斉、晩年の孔子がこの爻に当たる。憂国慨世の志を持っているが、不孝にして用いられない。王侯に仕えず道徳を修め養い、身の行いを高潔にしている君子がこの爻に当たる。しかし間接に世の弊風を刷新する力を持っている。

 

 (19)地沢臨(上六)(六五)(六四)(六三)(九二)(初九)(第二巻 251頁) ※その年・2012年の卦であったか。
 事をうまく治めることによって始めて大きなことができる。無事泰平ばかりあるときは、大きくなることはでき難い。事故無しに大きくなることはでき難い。いろいろな事故がある度ごとに、人間も大きくなる、国も大きくなる、文明も進歩するのである。「臨」とは高い所から低い所を見おろしているのであって、高く大きいことである。
 初九は陽爻をもって陽の住におり、位正しく志正しい。そして六四は大臣の位にあり、陰爻をもって陰の位にあり、位正しく志正しい。六四と初九は相応じて、世の中に臨んでいる。
 九二は陽爻であり、中の徳をもっており、臨の爻の成卦の主爻である。六五の陰爻は柔順にして中庸の徳をもつ明君であり、九二はその信任を得て世の中に臨んでいる(※咸臨という。幕末の咸臨丸これなりと拙考)。九二は君命に従うと同時に諌めることもある。
 六三は、位正しくなく中を得ていない。巧言令色である(甘くして臨む、甘臨という)。しかし過ちを改めて善にかえるときは咎を免れうる。
 六四は、位正しく志正しい。そして下にある初九の陽剛に相応じている(至りて臨む、至臨という)。
 六五は陰爻にして柔順、中の徳をもっている。この卦の主卦の主爻である。五爻目の天子の位にある。大いなる知恵をもって九二の陽剛と相応し、この賢人を信任している(知にして臨む、短臨という)。君たる者は自分の知恵をもって知恵としないのである。たとえ自分に如何ほどの知恵があっても、それを用いず、天下の知恵をもって自分の知恵とするのである。天下の知恵のある者は皆、その知恵の有らん限りをもって、君の為に謀るようになる。
 上六は、位の無い位地であって、山林に隠棲している人と見ることもできるし、天子の師匠たる人と見ることもできる。至って柔順にして、下にある初九、九二の陽爻に従おうとしており、過はないのである(敦しく臨む、敦臨という)。

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