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イッセイエッセイ

899号 創造と組合せ

2013年12月21日(土)

 かつてFEN(極東放送)という駐留米軍関係者向けの放送局があり、現在はAFN(American Forces Network)として続いている。在京中にこれを聴く機会があるが、定時にはニュース、関東圏の天気、米軍施設での催事、ウォール街の株価情報などが流れ、ほとんどわからないなりにこれは英語の勉強になる。しかしそれ以外の大部分の時間はポップ音楽であり、音楽と音楽の間にはさらに短い時間で英語での案内があるだけである。次々と騒々しく歌われ、よくもこれだけ似たメロディがあるものだと感心するのだが、これは聴く耳によって大いに違うのだろう。
 昨朝のことAFNの英語の部分を聴こうとして、音楽ばかりの時間帯にぶつかりうんざりとしてしまい、世の中を変えるような創造的な新しいサウンドといったものは、どういう確率で生まれるのだろうかとふと考えた。
 せいぜいオクターブ半あまりの音の高低とそれらの長短の組合せとしか思えない音の響きから   この考えは間違っているのかもしれない。というのも曲は音の連続であるから、音階の多数の自乗(訳のわからぬ日本語になってしまった)になるから   ビートルズやR・ウェッバーのような人々を魅了するサウンドをつくり出すことができるのは、いかなる才能から来るのか不思議に思ったのである。
 限定された条件の組合せから新しい基軸を創ることは、サウンドにおとらず自分たちの仕事の分野においても起ってくることであり、アイデアにみちたプロジェクトをつくる難しさと比較できると考えた。そこでヒントとしてこの発想法を憶えておこうと、ティッシュにメモをしたのである。そして書いたことは忘れていなかったので、そのあと文章にしようとポケットをさがしたのであるが、ちり紙と一緒になったのか行方不明になってしまった。そして何をメモしたのかも想い出せなくなった。
 さて翌日の今日の土曜日のことであるが、「ボルヘス・エッセイ集」(木村榮一編訳 平凡社2013年)という仕事と遠く離れたような本を読んでいて、次のような文章に出会った。
 「十九世紀のはじめ、ジョン・スチュアート・ミルはいつか音符の組み合わせが尽きて、将来ウェーバーやモーツァルトのような作曲家が生まれてくる余地がなくなるのではないかと懸念した」。
 つづいて、「しかしそれらは形而上学や芸術を一種の組み合わせの遊戯と見なす一般的傾向が、極端な形で現れたものにすぎない」。
 ルイス・ボルヘス(1899-1986年)の論文は、読者を困惑させるような迷路的な論調の文学や思想に関する文章がほとんどなのである。「バーナード・ショーに関するノート」からというエッセーのこの一節は比較的普通の論理展開の仕方になっており、ちょうど自分の忘れていた事をよいタイミングで想い出させてくれたのである。
 「書物とは対話であり、関係の一形式である。・・・黙っていてもその人の聡明さが分かる場合もあれば、もっともらしい意見を述べているのに、その人の愚かさが透けて見えることもある。文学においても事情は変らない。」
 「作者はその一瞬の自分以上に聡明な、もしくは気高い人物を生み出すことはできない」
 これらボルヘスの文章は、書物なるものは作家が言葉を組み合わせて作った単なる言語構築物ではなく、それ以上の何かであることを示唆しているように思う。となると仕事のアイデアにおいても、素材の組合せだけではできないばかりでなく、それを思いつく人物の品性以上のものは出ないことになる。

(2013.12.15 記)