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イッセイエッセイ

897号 夢の場のフクロウ

2013年12月16日(月)

 なぜかフクロウが出てくる夢を明け方にみた。生れてこのかた、夢の中にフクロウが出てきたことは一度もない。あるいは忘れたのかもしれない。
 灰色の平たい顔をしたフクロウである。この奇妙な鳥が夢の中に何のために現われ、また何をしようとしたのかは、夢のことゆえそこまで思い出すことはできない。夢の残った後味としては、フクロウはわりあい良い印象の様子であった気がするのみである。
 フクロウが何の脈絡もなく突然に現われるのも不思議なことである。それできのう一日なんらか関係するような出来事があったのかどうか、影響を受けたものが何かあったのか、想い出そうと記憶をさぐってみた。そしてどうやら、次のような因果関係が起っていたのではないかと思った。
 きのうは車内のラジオでシートンの伝記を聞いた。「サンドヒル鹿」など動物体験記を書いたカナダの作家でナチュラリストであったアーネスト・シートンである。だからフクロウが現われたのか、とまずは思ったのである。しかしそれなら、大きな鹿やグリズリーあるいはリスなどが登場してもしかるべきなのに、放送にはなかったフクロウなどという動物が出現したのが不思議であった。するとまた次のことに思い至った。
 炬燵に入っての妻との夜話しで、子供に対する絵本の読み聞かせや、大人が読み方を勉強する教室のことを話していたのである。絵本の読み方は感情をこめない方が良いのではないかとか、子供に対しては残酷な童話の筋はさけるべきか、とは言っても、ピーター・ラビットの物語などにはずいぶん物騒な筋のものがある、子供と大人の感じ方は違うのではないか、という方面の話しの展開になった。ここでもフクロウは話題にならなかったけれど、むしろ表には出なかったが頭の片隅にピーターの物語に出てくるフクロウのブラウン爺さまのことが頭脳を喚起したのではないか、島の主であるフクロウはリスたちが美味しい果実を貢がないと、木実採りをさせてくれない親分フクロウなのである。このフクロウが潜在的に記憶の中から蘇ったのではないかと推測したのである。
 それにしても、毎日のささいな出来事や一つひとつの体験のすべてが、思考の材料や雑念や夢の(もと)として頭脳に漏れなく刻み込まれ、心身の習慣として蓄積されてしまうというのは、恐ろしい事実である。
 「ミネルヴァの梟」には時々出てきてもらって知恵をいただかなくてはならないのであるが、そのためには幾つの年になっても、できるだけ良いことを考えて良くない体験はさけるような注意が要ると思うのである。

(2013.12.8 記)