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イッセイエッセイ

881号 日本人の観念力の弱さ

2013年11月06日(水)

 自分たちの国民性について、日本人はじゅうぶんに気づいていない。これは個人の場合で言えば、外から見える自己に対する印象について、自分が十分にわからないのと同じである。若干の自覚はあるかもしれないが、ではあるが。また、このことは日本人だけに限ったことではなく、どの国民においても同様のことが言えるであろう。
 では日本人の性格とは、一体どういったものなのか。
 現代もまた、今の時代としての徹底的なグローバル時代である。ひんぱんな民間交流や国の外交などを通じ、他の国民も日本人のことを、さまざまに感じたり評価したりする機会が増えているはずである。しかし最近のグローバル化は、かえって互いに相手をじっくり観察することをおろそかにし、また政治的な先入観がまぎれ込み、意外と互いの国民性を見極めにくい点もあるだろう。
 むしろ時代は遡るけれども、江戸末期に日本を訪れた外国人がみた日本人に対する観察の方が、より明瞭に日本人の本質に直接的に迫っているかもしれない。
 彼らの残した記録をまとめて言うと、日本人の性格は、観念的・形而上的な方面への関心が薄く、むしろ現実的、具体的、物質的なものに気持が動く国民性であると見ている(863号参照)。
 その当時に来日した多くの外国人たちは、その意図にかかわらず、互いの文明のギャップを利用して貴重な文化財を国外に持出したとみられるが、それを経済的に可能にしたのは、モノについての価値観の差だけでなく、交換の基となった金銀の世界的な本当の相場に気づかなかったからではないか。貨幣の比較価値は抽象的な観念であるため、為政者をふくめて日本人は鈍感なところがあり、国際取引においてたえず損失をこうむったのではないかと思われる。
 最近のエネルギーや原子力発電の問題などに関連して言えば、原油を大量に中東から購入する必要があり、年3~4兆円の貿易赤字の要因になっているのだが、国民がこの点を指摘されても国民の間に増税問題ほどに反応がないのは、日本人の観念的なものに対する感覚の弱さではないかと思うのである。そのうえ、この種のスケールの大きな人為的な損失については、日本人はまるで自然現象ないし天災のように考えてしまうのではないかと思う。

(2013.10.21 記)

 江戸時代の長崎貿易について何か参考になるものはないかと考え、本で調べてみたが(調べ足りないこともある)、そのうち比較的まとまっている日蘭貿易史を専門としている鈴木康子教授の「長崎奉行 等身大の官僚群像」(筑摩書房 2012年)を一読した。
 本書は、江戸期の長崎奉行125人の中から7人の人物をとりあげているが、貿易政策そのものを論じてはいない。しかし、以下のような長崎貿易の制度の変遷は不完全ながらわかる。すなわち本書に出てくる貿易制度の変遷は、1604(慶長9)年からの糸割符(いとわっぷ)仕法(独占商人による生糸輸入)、1655年からの相対仕法(長崎での外国商人と国内商人の相対による自由貿易)、1672(寛文12)年からの市法貨物仕法(輸入品価格に各年の上限を定め、輸入品量の方は自由)、1685(貞享2)年からの御定高(おさだめだか)制度(年間の貿易総額を制限し、とくに唐船を統制)、1742(寛保2)年からの「長崎貿易半減令」、1763(宝暦13)年からの田沼時代の長崎貿易改革(これまでとは逆に、唐・蘭から金銀を輸入し、代わりに俵物などを輸出)、など。
 しかし、貿易にあたって当時の日本は競争力を持った輸出品は少なかったであろうから、日本の金・銀の出超傾向が基本的な流れであったろう。その上に、内外の交易条件について日本人が明瞭な観念を抱いていたかどうか。これらの点については、本書は関心を向けているようには見えない。

(2013.11.4 記)