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イッセイエッセイ

880号 キャラメル工場ってなに

2013年11月05日(火)

 佐多稲子(1904-1998年)の前半生は、あまりに波瀾に富むのでそれ自体が私小説のようであるが、ここでそのことを記すことにはしない。
 1928(昭和3)年、彼女が二十四歳のとき、中野重治のすすめによって、処女作「キャラメル工場から」を「プロレタリア芸術」に発表、作家としての第一歩を踏み出す。
 この処女作を読んでみる。また彼女の随筆をいくつか見ると、郷土の水上勉、高見順などのことが出てくる。中野重治や鈴子との関係は深かったらしく、関係をのべた手紙や随筆の作品は多い。
 稲子の人生の後半は、外見の作品をみるかぎり比較的穏やかであり94歳で死去す。
 以下、随筆からいくつか抜粋する。

 「この父親がまだ中学生で十八歳(佐賀中五年だったらしい)、母も女学校に通っている十五歳(佐賀高女1年)の時に、可愛らしい恋愛の結晶とも、早熟ないたずらのあやまちとも言われるようにして生まれたのが私なのだった・・・」(「文学的自叙伝」1939年 「佐多稲子全集」16巻から 講談社昭和54年)
 「義務教育を終了しなかった、という生立ちは、私の年代としてはもはや特殊であった。その特殊な生立ちを私はした。が本との出会いということで私は、最初に仕合な事情を持ったという気がする。・・・」(「本との出会い」1977年 同18巻)。
 「母は正邪をわきまえ、内気だったが情熱的でそして利発な人だったと思う。亡くなる直前に私にくれた巻紙の手紙には『ヨクベンキョウヲシテ、ヨイオクサンニナルヨウニ』と書いてあった。私はこの母を尊敬しているし、全く好きだと思うし、二十三歳のその生涯を哀れだとおもう。私は自分の結婚生活で辛かったとき、お母さん、と口走って泣いてしまってからはっとしたことがある」(「母のおもい出」1957年 同17巻)
 「数え年十二歳の私は、菓子工場の女工になったり、支那そば屋では包丁の幅が私の手よりも広くて、じゃがいもの皮がむけなかった。そして私は自分の境遇が突然変わったということで、ものも云えない位にびっくりしていたから、だまって大きく眼をひらいているきりであった。・・・(やや中略)・・・少し前に読書遍歴という題で原稿を書いた時、改めて思ったことがある。『字だけは読めた幸せ』ということである。尋常五年まで学校へ行ったおかげで字だけは読めた。」(「学歴なし」の履歴書1957年 同17巻)
 「そういう自分の写真というものに、私はひとつのおかしなのぞみを持っている。一度はしっかりした意表的な顔で写ってみたいものだ、というのぞみである。私は写真でいつも笑っている。」(「自分の顔」1961年、『女茶わん』三月書房 昭和54年から)
 「丸善に私が勤めたのは、大正11年、十八歳のときである。 ・・・日本橋の本店で女店員を雇うのは二十人ばかり一緒に、私たちが入社したのが最初であった。・・・まだ入り口でいちいち下足にはきかえたものであった。赤い鼻緒の麻裏草履が入口に揃えてあって、老人の下足番さんが三人いた。その人たちの静かな顔をおもい出すことができる。・・・(ずっと飛んで)・・・私はガラス棚を磨いて、舶来の香水をかざり、よく読めぬローマ字をにらめて会社の名から香水の名を覚え、とにかくその場の売り子を三年勤めた」(「丸善のおもいで」1962年 同17巻)

(2013.11.3 記)

 プロレタリア文学などという言葉は、歴史用語ではあっても死語同然になっており、子供たちには通じにくいであろうが、しかし彼女の小説「キャラメル工場から」や自己の境遇を語った他の作品などは、今の子供たちになお読んでもらってよいものである。

(2013.11.4 記)