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879号 山川菊栄「武家の女性」(昭和18年)から思うこと

2013年11月05日(火)

 三年近く20代から30代にかけ水戸の町に住んでいたことがあるので、この本を読み、その頃に読んでおくべきであったと反省する。同時に、過ぎし昔の城下町水戸の物語を懐かしく感じながら、1ヶ月ほどかけて断片的に進んで読了をすることができた。
 水戸に住んでいたのは今から四十年ほど前の頃であるが、風景に江戸の面影を感じるような町ではなかった。ただ居宅のあった場所の旧町名が鷹匠(たかじょう)町と呼ばれていた。新しい住居表示名は梅香(ばいこう)町であったが、県庁の人たちは旧の町名で呼んだりしており、昔そうした技能をもった人たちの住区であったのだろう。
 水戸市街の山の手というのは、馬の背の形をした出入りの多い台地形になっており、公舎とその前を通る道路が谷(ヤヅと呼ばれていたが、谷津のことかと)に向っており、道の向かいの端は草や木々がうっそうと茂る深い崖であった。季節になると谷の底の方から聞きなれぬ種類の蛙の大きな声が聞えてきたのである。秋には逆に後ろ側の隣の駐車場から、伸び出た栗の木がわが家の屋根によく実を落とすのであった。コロコロと転がり落ちる音で眠りが覚めることがあった。小さな地震も夜中によくあって、自分の故郷とはちがう土地柄だと思った。当時の家の間取りはぼんやりと思い出せるのだが、台所や風呂場の様子の記憶が出ないのは、なぜだかわからないが、家事の手伝いもしていなかったためであろう。毎日何を食べていたかといった類いのことも思い出せない。庭に白い雪柳の花が咲いていて、玄関の横は竹林であった景色は一種の観察にすぎないから憶えている。
 こう書くうちに、その頃の全体の記憶に思いが及んで、今であれば大事だと思うことに、さしたる関心を向けないまま、日々のつまらぬ事のために時を過してしまったことや、永遠に時間が流れ去り失われてしまったことなどを強く感じる。

(2013.10.6 記)

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 この山川菊栄の「武家の女性」は、「はしがき」にもあるように、著者の実母の千世さん(安政4年・1857年生まれ、昭和18年に87歳)の思い出を主にして、幕末の水戸藩の下級武士の家庭と女性の日常の様子を描いた本である。実際に読んでゆくと、お母さんが親から聞かされた時代の家族の生活と世相の観察記録であるから、もう一代前の祖母きくさんの記憶していた話が中心であることがわかる。
 ひとつひとつの話については切りがないので、江戸末期の水戸の城下町での「教育」にかかわる部分を本書からとりあげてみたい。
 (飛行機と列車の移動のときを使って通読した際の傍線部分から抜き出すことになる)

 水戸では、私塾(「お塾」と水戸では呼ばれていた)において、基礎教育が行なわれた。誰でも勝手にお塾を開けるのではなく、藩の許可を得た上で、相当の学者と認められた人にだけ許されていた。
 私塾の先生は世襲制ではなかったので(これは江戸初期の水戸黄門の考えによったもの)、同じ家系が必ずしも代々教師として続くわけではなかった(なお著者の祖父の家は、四代つづくお塾の先生であった)。弟子への教育は満6歳から始めて20歳近くまで行われる。並行した形の教育制度として藩校(弘道館)があり、13、4歳から中等・高等教育が行われる。これは毎日ではなく、身分により、また長男か否かにより出席義務に差があった。
 お塾は年中無休の「朝読み」から始まり、論語や孝経などの素読である。生徒は一たん早朝の学習から朝飯を食べに帰宅し、また出直してお塾に来る。漢学の素読のあとは、一日じゅう手習草子に手習いをするだけで、単調な退屈な学校であった(ようだ)。十三、四歳からは講釈をきき、おいおい漢詩、漢文の作り方も習う。学問がすむと武芸の稽古に出かけ、夏は水練を習う。
 文武の修業のほかに、日常の礼儀作法、言葉づかい、物事のさばき方などについては、男の子は女の子よりもきびしく父親から注意され、しつけられた。息子を父親がみずからが仕込んで、家風も家の芸も伝えた。
 女子の方の教育については、満6歳になると手習いの師匠さんに弟子入りをする。「いろは」から「百人一首」、「和論語」へとよみ方を進めて手習いをする。12、3歳のころから手習いをやめて、お縫子として裁縫の師匠に弟子入りする。
 14、15歳から16、17歳で結婚する例であった当時の娘たちを、一人前の主婦に仕込むのは母親ではなく、むしろ姑の腕であったようだ。
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 水戸の天狗党のことも本書に出てくる。
 このことは歴史の場所としてわが福井に関連する。そこで参考に、手元の吉村昭著「天狗争乱」(歴史小説集成第二巻)の後半部分を読んでみた。
 1865(元治2)年、敦賀の北郊の新保村のところで、水戸天狗党は南方側の前陣の加賀藩、北方側の福井藩などの挟撃に合う。慶喜の非寛容さもあって、雪中の武田耕雲斎らは降服の止むなきに至る。この吉村昭の小説の伝えるところによれば、天狗党に対する加賀藩の振る舞いは、全体として重厚である。一方の福井藩については、後日の天狗党の処刑の役を拒否したのはよしとしても、主力が鳥羽伏見にあったとはいえ、その間の政治的な判断や行動において、もう少しやり様があったのではないかと残念に思うところがある。
 なお、天狗党討伐に出陣した越前若狭の諸藩は、福井藩(家門・32万石)のほかに、鯖江藩(譜代・4万石)、府中藩(福井藩支藩・3万9000石)、大野藩(譜代・4万石)、勝山藩(譜代・2万2000石)、さらに小浜藩(譜代・10万3500石)ということになっている。

(2013.10.14 記)

 最近走り読みした山岡荘八歴史文庫・「新太平記(5)義貞戦死の巻」、これは太平記の時代を扱った時代小説であり、敦賀金ヶ崎城や杣山城、灯明寺畷の戦記をやや講談的に描いている。戦国時代もそうであったが、嶺南・嶺北の峠をはさむ境界は歴史的に一種の勢力上の均衡地帯、いつも北軍側にとっては敗北線であった。

(2013.11.2 追記)