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イッセイエッセイ

871号 鰡か鰻か渋柿か

2013年09月29日(日)

 長崎県の諫早という町は、子供の頃であったが大きな水害が有った町であり、諫早水害の名前と独特の音のひびきを憶えている。
 地方自治の仕事をするようになってからは、長崎に出張した折にこの街を通過したり、またこの街だったか或いは近くの町であったか(記憶がはっきりしない)、職員の結婚式に出向いたことがある。ちょうど雲仙普賢岳が煙をはいた頃であり、ここから見えるとか見えないとか言っていた。九州のこの辺りの祝い事は雰囲気がすこぶる元気があり、式の最後には数人の友人たちが花婿を真横にして両手で頭上に支えて走り回る、いわば胴上げに似たパフォーマンスまでやらかした。諫早の名物は、鰻の蒲焼であり食べ方が普通とややちがうのだ、ということを教えられたが、残念ながらその時に食べたのかどうかは柳川の記憶と混乱して定かではない。街中のこの川がむかし大洪水になったと言われて、水害が起るほどの川なのだろうかと思ったような記憶がある。
 「諫早菖蒲日記」(文藝春秋 昭和52年)という歴史小説を読んだ。諫早の町で生まれ育ち、この地において42歳(昭和55年)で早逝した芥川賞作家の野呂邦暢(くにのぶ)によって書かれたものである。今年が没後三十三回忌にあたるということであり、記念のための事業もあるようだ(9月1日の毎日新聞の書評欄に。861号参照)。この小説は、幕末の諫早藩といっても佐賀鍋島藩の思惑に兢々としている藩とも呼べないほどの支藩を舞台にした物語である。
 この藩の砲術の指南役である藤原作平太の娘志津が、小説の主人公であり、人物は架空ではない。小説の「あとがき」によれば、明治12年に米国のグラント大統領(北軍の元司令官)が長崎に来航した折、作平太は歓迎の花火の打上げ役を県令(知事)から仰せつかり、老躯をおして長崎に出向いた。このとき志津は自分の幼い娘をつれてこれに同行したという。この幼い娘の子にあたる72歳の茶・華道の師匠さんが、作家の家主さんであったという。
 「初めての歴史小説ゆえ資料考証に万全を期したつもりであるが、あやまちが皆無とはいいきれない。故意にフィクションをまじえた箇所もある。しかし物語の大筋に虚偽はない」(昭和52年の「あとがき」)

 諫早(伊佐早)は、地図を見ると長崎の半島部の地峡部に位置し、有明海、大村湾、橘湾が三方から切り込むような形になっている。江戸期に陸路で長崎に行くには、必ずこの場所を通らなければならなかったはずである。昭和32年に水害があったというのは、小説の中にさかんに出てくる本明川という川であろうし、現在ではその河川部の諫早干拓の扱いが政治の話題によくなっている。当時から平野も広くなく年貢地も限られていたのであろう。小説の中でも、武家の生活のやりくり(内証)の厳しさや慎ましやかさが、こまやかに良く描かれている。
 主人公の父が江戸勤番の折に懇意だった出羽・米沢藩の友人が、海軍伝習所へ勉学するために立ち寄る話がある。母がどんな魚で馳走したらいいか気をもむのだが、諫早の鮮魚は、くちぞこ(・・・・)(アカシタビラメか)、(ぼら)、ちぬ鯛の順で格が上であったらしい。ぼら(・・)が魚河岸に揚っていないと困る、くちぞこのような下魚を客人に供しては礼を失すると、母が下男に指示する。ぼら(・・)というのは、いま頃の初秋に河口近くで獲れる大きな青魚のことであろうから、おそらく有明海産のものである。福井では食さなから、これが美味いものなのかどうかはしらない。
 藩の砲術役の幹部が、主人公の屋敷で流派合同のための特別の寄合をする場面がある。そのときの接待のメニューであるが、評判の母の手打ちうどん、下男が捕えた狸肉の味噌漬、泥鱒汁、うなぎの蒲焼き、香のもの、酒(澄み酒)。ただし、鰻は物頭格の客にだけ付く。そのほかこの小説の中では、鯨漁、雉撃ち、狸狩、干鱈、鰹塩辛、いわし、あさり貝、あげまき、蜆、だくまんちょ(海老のこと)、渋柿、楊梅(やまもも)、あけび、山栗、薬草、(はぜ)、菖蒲、てっせん、夾竹桃、罌粟(けし)、わらじ作り、矢絣など、出てくる物の名をそのまま並べてみた。また、城下の様子、地名、人名、方言、民謡、仕きたり、暮らしぶり、歴史などがストーリーに沿って物語られ、まるでそこに居合せているような臨場感がある。主人公の身の上に大きな変化があったり、ロマンスが展開するような小説ではないが、幕末の地方都市に生きていた武家の人たちの日常がよく描かれている。
 本県の若狭や越前の城下についても、誰かの手によってこういう歴史小説が書かれるとよいのだが。

(2013.9.23 記)

 「野呂邦暢・長谷川修往復書簡集」陸封魚の会・編(葦書房 平成2年)をきのうから読みはじめた。長谷川修は山口・下関の人である。「諫早菖蒲日記」の主人公の先祖が住んでいた居宅(当時はこの作家の自宅になっていた)の写真が載っている。玄関に入る門の両側が人の肩の高さほどの石垣になっていて、続く土手には大きな木や竹のようなものが植ってある。家は半分が平屋であり瓦屋根が二重に伸びている。これを見て小説にやや実感が加わる。文学碑(昭和61年)の写真もあり、この小説の書き出しの数行が刻んである。

(2013.10.7 追記)