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863号 江戸時代の日本人

2013年09月21日(土)

 江戸時代の日本人がいったいどんな人々であったのか。時代小説や捕物帖などから創作された江戸の庶民のステレオタイプの姿は、馴染があるにしても、本当の姿は知ることがない。
 しかしこの本を読んで、江戸の人たちが、想像のものとはかなり違うタイプの生き方をしていたことを知る。渡辺京二著の「逝きし世の面影」を読み終ってそう思ったのである。
 日本や日本人のことを、幕末・明治初期に来日した外国人が母国の読者に向けて書いた著作物が、本書の原典になっている。いずれもが彼らが深く当時の日本人の姿に「感動」した(最近使われ過ぎる表現をここであえて用いよう)事実を、われわれは本書で追体験することができる。著者が言うように本書の目的は、江戸の古きよき文明、滅び去った文明をもっぱら描写しようとしたものであって、明治の近代化の意味であるとか、日本人とは何であるか、といった議論の試みではないのである。
 たくさんの外国人の著者が、何度もテーマ各に繰り返し出てくるので、自分で人名索引を自分で作りながら読まないことには、落ち着いた気持で読書ができない。そうしているうちに、様々な目的と期待をもって渡来した異国人に親しみを持ち、今の日本人が逆に彼らの面影を懐かしく思うようになり、鏡のごとき記録を良くぞ残してくれたと感謝したい気持になる。しかも生没年までを記していくにつれ、彼らがいずれも1800年代に生まれ、同じ世紀のうちにほぼ亡くなっていることを確認し、粛然とするのである。日本の良き記憶と同じように、彼らの方も貴重な記録を残して滅び去って行ったのである。
 本書には、実に多くの見聞と観察が集められており、その一つひとつをここで論じることは放棄しなければならない。
 ただ、幕末のわが福井藩に深く関係したエリオット・グリフィスについては、若干の説明をしなければならないだろう。
 グリフィスは、日本について十数冊の著書をあらわし日米の架け橋となったことにより、1908(明治41)年に日本政府から勲四等旭日章を授与されている。その当時の駐米大使宛てのグリフィスの手紙が、以下のように本書に引用されている。
 「私はこれまで日本人にへつらったことはありませんし、単なる身びいきで彼らを擁護したこともありません。西洋に対する東洋の通訳たらんとする努力において、私は科学の学徒の精神で進んでまいりましたし、私の意図は、民族的であれ宗教的であれ社会的であれ、偏見と無知と固執の壁を打ち破り、恐怖も偏愛もなしに真実を述べることにありました。だからこそ私は自分の国と国民に対してと同様に、あらゆる日本の事物を自由かつ忌憚なく批判してきたのです。」(第二章「陽気な人びと」74頁から)
 この本に引用されているほとんどの著書は、日本人に対する讃美者の言葉である。しかしこのグリフィスに関する引用を読むとき、このような少数の批判者を得たことは、著者ならずとも感謝をしてしかるべきか。

(2013.9.8日曜日記)

 「逝きし世の面影」では、グリフィスの「皇国」から、そのほか以下のようなところを引用している。
 「観察者の中にはこの質素でシンプルな文明の姿に失望を隠せないものもいた。たとえば化学教師として越前藩に招かれたグリフィスは1871(明治4)年2月福井に入ったが、遠望する福井の町は『ただ黒っぽく広がる屋根の低い家、大きな寺院、切妻、天守閣、竹藪、それに森』のかたまりで、西洋の都市を印象づける金色の風見のある尖塔とか、どっしりした破風やファサード、それに大きな建物などはまったく見受けられなかった。町中に入ると『日本の都市がどんなものかわかった。家は木造で、人びとは貧しく、道は泥だらけで、富の証拠を表わすようなものはほとんどなく、すばらしい店など一軒もなかった。東洋の壮麗と奢侈の噂の何と馬鹿げていたことか。私はあきれてしまい気が滅入った』・・・この福井の印象は、『日本の住民や国土のひどい貧乏とみじめな生活』についての彼の断案のいわば総仕上げといってよかった。」(以上、第三章「簡素とゆたかさ」100頁から)
 他にこういう暗い調子の外国人の観察記録はほとんどない。グリフィスをことさらそうした人物の代表として引用しようとしたためかもしれない。山下英一氏の近著「グリフィスと福井」(増補改訂版)(平成25年3月)を見ても、そこまでの調子は見られない。

 「グリフィスが福井の藩校を辞職する際には問題が生じた。契約が三年であったのに、彼はまだ一年も在職していなかったのである。しかし彼はどうしても東京へ移りたかったし、その希望はついに認められた。その間きびしい見解の対立があったにも係わらず、別れの宴は盛大に張られた。グリフィスは姉の手紙にも書いている。『昨日一日、わが家は生徒や役人や市民、ざっと言ってあらゆる者でごった返した。みんなが別れを告げに来たのだ。みんな、お金とか漆器とかお菓子とか骨董などをプレゼントしてくれて、テーブルは一杯になってしまった。』出発当日、五十人ばかりの学生と市民が三マイルも見送ってくれた。学校主事の村田氏寿(1821-99年)と十二人ばかりの関係者は十二マイル彼を見送ることになっていた。この村田こそ、グリフィスの身勝手な願望にとって最もてごわい障壁だったというのに」(以上、渡辺著から第四章「親和と礼節」153頁)
 「この二世紀半の間、この国の主な仕事は遊びだったといってよい」、「日本人のように遊び好きといってよいような国民の間では、子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に、境界線を引くのは必ずしも容易でない」(以上、第二章「陽気な人びと」70頁から)

(2013.9.14 記)

 以下、自分としての感想めいたことになる。日本人にとって江戸を知ることは、現在の自分たちの生活に対し新しい別の見方を与えてくれることのように思える。
(1)当時の西洋人の観察によれば、日本人の特徴は、現実のことや具体のこと、つまり物質生活にあり、西洋のような観念的、形而上的な問題への関心を示さなかった。しかし幕末の思想家は自己誤認をしていて、西洋の物質的技術と東洋の精神道徳との統合を夢見ていたのである。(第十四章「心の垣根」476頁に関連)
 クールジャパン、かわいい文化、大震災時の冷静etcとはどんな関係。
(2)知識階級が伝統的宗教から離れ、旧い信仰を保っていた民衆から離れていったのは、明治以来の近代化・世俗化の結果だと信じてきたが、あに計らんや、それは徳川以来の伝統であった。江戸時代の教養ある日本人は、そのころから仏教とその僧侶を尊敬していなかった。(第十三章「信仰と祭」440-441頁に関連)
 日本人が宗教に関して最も無関心な民族であるという、当時の外国人の観察と、現代の日本人の健康・若さ・美しさに対する過度の関心ないし迷信との間には通底するところがあるか。著者は日本人論や日本人のアイデンティティなどには興味ない、近代が滅ぼした文明の態様と個性に関心がある、と断言するのであるが、このあたりの記述はやや比較文化論になっている。(第十二章「生類とコスモス」432頁に関連)
(3)チェンバレンやベルツの証言から、明治日本の知識人は、日本の過去の歴史を羞じ、全否定する人々であった。(第十二章「生類とコスモス」432頁に関連)
 江戸文明は野蛮であった、自分たちには歴史らしいものがなかった、と恥じる明治の指導者は現代にもつながっているか。
(4)徳川時代の後期には社会全体の心性が、髪型や衣服をはじめ、いちじるしく女性化した時代であった。(第十二章「生類とコスモス」412頁に関連)
 新井白石は「折たく柴の記」の中で、自分たちの父の時代(江戸初期)は荒々しい尚武の時代であった、と述べていることに照合する。
(5)江戸の使用人は、自由であり、主人のために仕事に責任を持ち、命令を形式的に決して聞くようなことはなく、期待される結果を出そうとする独立心のある人たちであった。こういう日本人の考え方に外国人の主人側は当惑した。(第七章「自由と身分」230頁に関連)
 最近の市場主義の時代に至って、この労働の伝統がすたれたのではないか。
(6)徳川時代の裁判や決めごとは、厳しい建前と一方での緩和された運用があった。(第七章「自由と身分」に関連)
 この点も米国的な法律万能主義に表面的な影響をうけ、杓子定規になっていないか。
(7)チェンバレンが、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」といった理由は、江戸の人々の相互の交わりという点において、自由と自立を保証する社会だったことに由来する。(第三章「簡素とゆたかさ」に関連)
 衆目が認めた日本人の表情に浮ぶ幸福感は、どこへ行ったか。しかし現在の日本は、貧乏人はいないが貧困があると言ってよいものか。
(8)そして最後に司馬江漢(1747-1818)の「西遊日記」から。
 遠江国の山村の老婆が語るよう。「『お江戸とはよい処と承ります。ここはまあお聞きなされまし。米とては一粒もなし、ヒエ麦に芋の食にいたします。その上塩が払底、味噌などを得かたく、生魚とては見たる者は一人もござらぬ。昼は猿の番をいたし、夜は(しし)を追います。ご覧の通り、畑のめぐりに囲いをいたします。猿はその囲いを飛越して、麦やヒエを荒します』。四つ、五つの小童が老婆の傍にいたので、喰い残しの握り飯を与えると、饅頭でももらったようなよろこびようだった。」(第三章「簡素とゆたかさ」に関連)