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イッセイエッセイ

862号 諸国大名

2013年09月11日(水)

 「逝きし世の面影」(1998年)という本と、司馬遼太郎の数十年前の対談集を同時に読んでいくうちに、江戸時代の諸藩の石高というものが気になった。加賀100万石はいうにおよばず、昔に見た時代劇映画などの記憶から、伊達62万石だとか、小藩ながら忠臣蔵の赤穂5万3千石、あるいは子規の句の松山15万石というように、自然に石高が口をついて出て来るものもある。もちろん江戸時代の人達にとってはこの種のデータは基礎知識であったろう。
 最近流行っているランキング的な大名総覧をしてみれば、30万石以上の大名・大藩は一体どれくらいあったかである。調べてみると十五藩が存在し、これら30石以上の藩の幕末のおよその石高数は加賀(102)、薩摩(77)、伊達(62)、尾張(61)、紀州(55)、熊本(54)、福岡(52)、広島(42)、長州(37)、佐賀(35)、水戸(35)、津(32)、鳥取(32)、福井(32)、岡山(31)となっている(なお若狭の小浜藩は10万3558石・譜代)。
 それぞれの県史を詳しく調査すれば、江戸時代を通しての各藩の石高の変遷や背景、実際の勢力との差異などもわかるはずである。石高は、企業でいえば資本金や生産量、従業員数ともいうべきものであろうから、石高は当時の各地方の生産高や人口に深く関係し、諸藩の実力や格式に直接関係したはずである。
 幕末維新期に、尊皇攘夷をとなえた倒幕という威力活動を実行した諸藩をみると、鹿児島、山口、佐賀がいずれもこの15藩の中に入っており、土佐(高知)についても24万石であるから、維新倒幕の主力はランキング上位の西日本の諸藩が起こした歴史的事件であるといえる。これ位の大きさの藩でなければ、おそらく一定量の思想と行動力をもった過激派ないし小集団が、藩内には形成できなかったのであろう。
 上位十五藩のなかでも、御三家は制約がありすぎて思うように実力を発揮できなかったであろうし、唯一その中で親藩であった福井藩も折衷的にとどまり現実の勢力結集がむずかしかったとみる。水戸の天狗党に対する処理などは、時事的な今の政治用語を使うならば、もっと他のましな選択肢もあったのではないかと愚考する。
 それにしても上位二十藩のうち尾張・紀州・水戸の三藩は御三家、福井と会津(23)が親藩であり、さらには彦根は譜代であったから、他の十四藩がすべて外様大名という現実であった。こうしたリスク度の高い地政学的な状況のままで平穏に三百年近い統治を経て幕末を迎えたことは、徳川時代の泰平さ、不思議さと言ってよいかもしれない。

(注)福井藩は1601年(慶長6年)、関ヶ原の功により秀康公が67万石を付与され、隣藩の加賀と並ぶ超大藩であったが、忠直公を経て50万石となり、その後のさまざまな混乱と支藩の分封によって、32万石で幕末を迎えている。有力諸藩のうちどれよりも極端に石高を減少させたのが福井藩である。歴史のifであるが、もし最初の勢力を保持したまま名実とも雄藩として19世紀の中盤を迎えたとしたら、幕末維新に福井藩はどのような役割を果たせたであろうか空想する。

(2013.9.7 記)