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イッセイエッセイ

849号 こばえて・こばえちゃ

2013年08月05日(月)

 温海温泉というのは新潟に近く、地図ではすぐ南に奥の細道で名の知られた鼠が関がある。
 温海(たちばなや)から酒田の町を目指してバスで昨日とは反対方向に北上。酒田・鶴岡は昔から一括して呼称され、日本で代表的な互いに隣合って競う地方都市である。福井の武生・鯖江がこれに類している。
 川を渡って酒田に入る。五月雨をあつめ悠然最上川。山居倉庫(庄内米の米倉庫、現役である)と欅並木を最初に見学。昔見たことがあるのだが、いつのことだったか区別できない歳になった。新しい酒田市長(本間正巳氏)が店舗や山車などの展示を含めて案内。県庁OBの方である。ともかくも、農林水産物とその加工品の豊富さと販売の熱心さには敬意を表するほかない。次に近くの「相馬樓」の館内見学、この伝統的料亭の建物管理を平田牧場という地元企業が引受けて経営している。金沢出身のプロデューサーがいるとのことであり、紅壁、紅花染畳、扇形の座ぶとんのデザインが珍しい。新しい女性の館長さんは会社の人事異動で来られたようだ。二人の白面、和髪の舞妓が観光客用に酒田おばこ、庄内甚句の二曲を踊る。その踊り方は元来そうなのか、伝統的というより足の運びや背の反り様など斬新な振付けである。三味線と歌の老妓は途中二度ほどしわぶいても、なかなかの腕前である。踊り手は酒田と埼玉の若い女性であり、好きで応募したらしい。歌の中にある、こばえて(酒田では)、こばえちゃ(鶴岡では)という意味を教わる。来てねを表す土地の言葉とのこと。
 奥の焼け残った土倉のような部屋には、竹下夢二館を併設している。夢二作の細長の美人絵や彼が撮ったという今風の美女の写真十枚ほどを展示。経営主のコレクションもあって。大観、玉堂の日本画、魯山人、河井寛次郎の焼物などがあり。そのほか密談にふさわしい色々な小部屋あり。福井県内の伝統ある建物の保存、修理、活用の参考にすべき例である。
 酒田市内を出て、今度は南東につらなる山並の一つ羽黒山麓に向う。県道の片側の脇には地吹雪対策の三段のフェンスが備えられている。冬期は一寸先が真白のことがあるとの説明である。山際に近づきはじめると、平地に赤い大鳥居が見える。くぐって昔の名の残る坂道が上に伸びている。やがて手向町(とうげと呼ぶ)という門前町らしい昔風の町並が現われる。民宿めいた宿坊多く、どの宿も必ず入口前に家の高さほどの簡単な枠の門構えあり、また家屋の軒には古いしめ縄に黒い麻布を下げた魔除けの飾りあり。
 街道のつき当たりには別の鳥居が見え、その前で棒を手にした烏帽子姿の神官が待つ。話しぶりに余裕とユーモアあり。なぜか学芸員と呼ばれる女性もいて、処々で解説があり。「随神門」をくぐり、もらった長い杖をつき雨もぱらつくので傘をさして、そこからすぐに谷につづく古い石段を、意外なことに上るのではなく下ってゆく。石畳をふむ足元はやや危しの感である。吉村知事が坂の周りに植生するミズなどの草木の名を教えてくれる。下り切ってしばらく行くと、右手に橋があり谷川が見え、滝が落ちる。ここで雨がややはっきりする。山伏はここで禊ぎをするそうだ。ずいぶん寒い感じのところだ。雨はそのせいかと皆で言う。またしばらく行き杉の大木と塔の見えるところに着く。杉は爺杉といい樹齢千年という。「羽黒山五重塔(国宝)」が目の前にあり。最初のものは平安・平将門の創建と伝えられているが、今のは十四世紀後半再建。太った若い山伏が待っていて、高低二調のホラ貝を吹く。神官がこの山伏はメタボであると話す。写真をとる。若狭の国宝明通寺三重塔と似ているが、五段と三段の違いあり。十三世紀の鎌倉期の明通寺三重塔の方が時代が古い。坂をすこし登って振り返った方向からがこの塔の姿が美しい。そこから出羽三山神社に向うときは、本当はかなりきつい石段を徒歩で登るはずなのだが、今は簡便法があり乗用車で登ってゆく。この神社は月山・湯殿山・羽黒山の三山の神を一緒により低い羽黒山の場所に祀っている。有難や雪をかほらす南谷(芭蕉は昔の今頃、この鶴岡に滞在)
 「出羽三山神社」を参拝、神仏混交だから釣鐘もあり、本殿の建物はカヤブキである。待合室で緒方宮司という方と談ず。部屋のどこからか忘れたが見通しがよい窓があり、最上川がうねって海近くへ流れてゆく姿が遠望できる。雨のため濁っている。丸い固い菓子が二包出る。皆が記念の署名をする。それから神殿にゆき正式のお清めを受ける。神官が鈴をならし、それを体に当ててお払いをしてくれる。祝詞は後半のところが声が大きくなり、仏教風な節まわしが感じられる(これは当方の勝手な理解である)。終ってその場を出て、天狗面のガラス容器の内側に神酒を注がれ謹んでいただく。さらに奥の建物の裏廊下のような通路を案内される。途中には厨房も見えそして「斎館」というところに至って、十畳ほどの座敷で精進料理の昼食を食す。膳が三つあり、三山を表す細筍三本と油揚とシイタケの煮物やゴマ豆腐と百合根の餡かけなどあり、ソバは食べ残す。トマトの切片なども混じる皿やブドウ、プリンを出されてやや観光的なところもあり。しかし、料理は和風でよくできており、永平寺などでは参考になるのではないかと愚考。時間がなくなり、長い下りの廊下をどんどん下りて、ようやく外に出ると雨が止んでいる。そこで山形知事に送られ、別れる。
 山に入ってからはこの間、よいめぐり合わせとなり、雨が降ったり、すぐ止んだりする。しかし行き帰りの平野部からの眺めは、両日とも北の鳥海山はもとより三山の月山も、ふもとらしき部分のみ見える。
 バスの車窓から空港近くの田をあらためて見ると、庄内の稲はまだ20cmほどであり、穂はもちろん出ていない。しかし区画が整然としており、福井のそれよりもさらに区画面積が大きい。平野全体も福井平野の二倍ほどの広さである。
 帰りはまた飛行機で逆のルートをとって戻ることになる。空港の売店にはメロンなどの他は、すでに見学した物のほかさしたる物なし。待合室では三重・宮崎知事、青森・長野副知事。そこにあった地元紙は山形新聞、荘内日報、前者は明治期から後者は戦後からの発刊か。よぐきたのう。地元のあつい対応に多謝。

(2013.7.31 記)