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イッセイエッセイ

835号 スイスの歴史について(2)

2013年07月16日(火)

 スイスの中立政策の由来を知ることにより、平和だ中立だと唱えるだけでは現実の中立は維持できるものではない、ということがわかる。
(中立と傭兵)
 スイス盟約者団(当時はまだ中央政府をもたない都市同盟体であった)は、自分たちを取り囲む列強のフランス(ハプスブルク家)、ドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリア(教皇領)の勢力から身を守るために、自らの意志と費用では決して外国の争いに加わらない「中立政策」を伝統的にとった。
 このようにして、スイスは外国からの侵略防止と平和確保と構成都市間による国内的紐帯を維持するため、対外的に武装中立を方針としていたが(1674年のオランダ戦争時が、正式に中立の始まりといわれる)、一方で中立政策をフランスなどに認めてもらうために、16世紀以来、列強諸国とそれぞれ「傭兵契約」を結び、相手国から年金の支払を受けると同時に、数千人から数万人の傭兵を相手国が徴募することを容認していた。そのため、たとえばフランスとオランダ間の戦争が起るとスイス人同士が戦うことも起った。つまりスイスの中立は、単にどちらにも味方しないというような簡単なものではなく、国民の傭兵という血によって、自国の中立をヨーロッパ各国に認めさせていたのである。
 歴史的にスイスの傭兵は、高い歩兵技術を評価され、当時としては強兵をほこっていた。しかも彼らには幅広い迅速な情報ネットワークがあったため、たとえば明治維新の際に日本との通親条約を、内陸国にもかかわらず8番目の早さで締結しているのである。
 1848年にスイスは、フランス革命によるヨーロッパの混乱の中で、伝統的な地域主義と中央主義を統合した連邦国家体制を成立させる。この時期、周辺の君主国で弾圧された多くの亡命者や難民が、中立国であるスイスに逃げ込む結果をまねき、このことがたえず隣国との軋轢や緊張を招くことになった。
(以上「スイス・べネルクス史」森田安一編著2004年山川出版から)

(外交と国内)
 トクヴィルの「フランス二月革命の日々」(死後の1893年に出版)は、当時のフランス側からのスイスに対する見方を示している。トクヴィルは、1848年に発生した二月革命政府の国会議員となり、翌1849年にはバロー内閣の外相も務めている。上記の彼の回想録では、スイス人の気質や民主主義の特徴を外交上の体験をもとに次のように書いている。
 「スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものと信じている」(上記書 岩波文庫408頁)
 「スイス人のデモクラシーの性格を人はよく理解していなかった。そのデモクラシーは、きわめてしばしば、外交問題について非常に混乱した理念しかもっておらず、国外の問題を国内的な問題が起った時にしか解決しようとしないものであった」(同410頁)
 ここにはスイスの小国たるがゆえの強い国民の自尊心、外交よりも内政志向の政治の特徴が、大国側のフランスの側から見てとれる。

(2013.7.6  記)

 話しを最初に戻すことにする。
 ここ数年、世界は外交の時代の復活といってもよいような国際的な会議や協定がさかんに展開する様相をみせている。しかも限られた勢力のある国々のみならずあらゆる新興国の発言力がそれなりに増大し、文字どおりグローバル化し、多くのプレイヤーと複雑きわまりないテーマをめぐっての新しい外交時代を迎えている。そして、日本の周辺では、諸国の膨張主義やそれに起因する対立が先鋭化してきている。

(2013.7.7 記)