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823号 SL風景-いまは山中いまは浜

2013年06月05日(水)

 十日ほど前の深夜のBSテレビ-「昭和のSL映像館(西日本編)」を見た。SL映像の撮影年、車種、本線名が表示されるほかは一切説明がなく、ただひたすら蒸気機関車が煙を排き出し音を立てて走行する様子が、次々と放映されるだけの番組である。
 はじめの頃のものは客車が多く停車場の風景もなかにはあるが、後半はほとんど貨車を連結したSLである。年代は、昭和30年代の後半から主に昭和40年代前半までの映像である。なかには山陰線(C11、C57、C58、44年)や伯備線、芸備線など、昭和40年代半ば以降のものもあるが、これら新しい撮影のものは白黒ではなくなりボンヤリしたカラーである。最も新しい映像つまり最後まで残った蒸気機関車の姿は、九州地方の昭和49年の日豊本線、日南線、日田彦山線、田川線のSLであり、そのすこし前のSLは中国・山陰地方の倉吉線(C11、47年)、山口線(D51、48年)、山陰線(D51、48年)などである。都市部の最後のものは城東貨物線(46年、大阪)が住宅の間を走っている風景である。昭和42年の春、寮友たちと四国旅行した際に乗ったと思われる江川崎-宇和島間(宇和島線)の機関車も画面に現われて不思議な気持になった。
 ディスカバー・ジャパンが始まったのが昭和45年であるから、SLの運命とエネルギー革命そして高度成長との関係が何となくわかる。
 わが北陸線は早目にディーゼル・電化がなされたためであろう、D51やC57が左手が崖になったカーブの場所(どこの地点かは判らない)を近づいて来るところが出てくるが、それは昭和37年のものである。敦賀第一機関区の風景と乗務引継の機関士の姿も映されており、昭和43年撮影のD51168号であり、おそらく電車と併存時代のものかと思われる。子供のころ敦賀の臨海学校や金沢の親戚への旅行はSLに乗ったはずだが、客車の一・二等のサイドボードの記憶はあっても蒸気機関車の姿は憶えていない。十三もあった杉津付近の峠のトンネルでの窓の開け閉めの騒ぎや、おそらく今庄だと思うが対向のSLが突然大きな汽笛を鳴らして皆んながびっくりした出来事のかすかな記憶がある。
 このTV画面のSLの雄姿に見入ると同時に周辺の景色にも興味をもった。背景として周りに少しだけ映る白いススキの揺れる田圃、カラスが逃げまどう村々の風景、防波堤のない白砂青松の海岸など今はもう見られない失われた世界がそこにはあるのである。またSLが急な坂を登ってゆく背後の山腹には、杉の植林事業が始められたらしい当時の山間も見えて、この頃は林業も良かったのだろうなと想像した。
 その頃の日本の景観は実に静かであり、撮影の場所でもあってかある意味では淋しいほどである。しかし懐かしくもかつ乱雑にあらざる故郷の風景がつつましく広がっていたのである。
 時代が下るにつれて道路網も映るようになり、鉄橋の下方に見えるガラガラの道路には、古い型の何台かの車が昔の映画のように動いている。それは大きな蒸気機関車の恐竜に対し、まるで哺乳類の小動物のように疎らに小さく走るのであるが、この生命力のある移動体が間もなく恐竜のSLを打ち倒すことになるのである。
 今日の日本をおおう夥しい自動車の群れ、沿道を占拠するスーパーやショッピング・センター、どこの街角にもあるコンビニ、所選ばず置かれた自動販売機など、われわれが現在見馴れている映像は、五十年百年後のアーカイブスの眼にはどんな風に映るのであろうか。

(2013.6.1 記)