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イッセイエッセイ

809号 驚く気持について

2013年05月02日(木)

 当時、国民作家といわれた吉川英治の68歳頃の自作朗読とインタビューをラジオ録音(「文壇よもやま話」)で数日前に聴いた。
 朗読はかの有名な巌流島の決闘が終った瞬間の武蔵が心境を語る場面であった。これは小説「宮本武蔵」の最後の結末のところと解説されていた。この佐々木小次郎との対決の部分は、朗読を聴いていて小次郎に贔屓の気持がはたらくこともあり、趣味に合うものではなかったが、最後の部分を直接朗読で聴かせてもらったので、小説をまるで全部読んだような気にはなった。吉川英治の小説は、赤穂浪士の一人(磯貝十郎左衛門)のエピソードを描いた短篇などを憶えているきりである。
 それから続いて放送の中では、雑誌社の社長とこの作家との対談が流れた。吉川英治の語るところによれば、作家としての自分の心懸けは、読者に対して書くのではなく読者の気持になって書く、自分の家族に迷惑をかけない生活を心掛けてきた、さらに「驚く」ということが大事だということであり、この点は聴いていて面白かった。
 この人間として「驚く」ということについては、最近の若い人には軽蔑の対象となるかもしれないが、「驚く」ことは大事だというようなことを述べていた(正確な表現は再現できないが)。
 驚嘆、驚愕、衝撃、震撼など「驚く」に類した心理状態をあらわす言葉はさまざまあるが、しかし「驚く」とはどういう心情なのであろうか。無知、小心、臆病、小児性とも違うであろうし、感受性、好奇心に関わるだけのものでもないように思う。
 こういう目で最近の新聞紙面を見てみると、日々のニュースは驚きだらけであるが、新聞の報道はそういう途中の気持は省略して、次の段階の人間の反応を新聞なりの都合と語り口で表現する姿勢をとっている。驚きはほとんど活字として印刷はされず、驚きは一瞬の感情として無視されている。あるいは相応しくないものに対し、この言葉が付けられたりする。 

(2013.4.25 記)