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イッセイエッセイ

807号 何を見ているのだろう

2013年04月27日(土)

 人間の観察力は、もともと印象派であって写真派ではない。まれに注意をこらしたときは、写真派に近づくことはあったとしても、せいぜい映画派である。
 しょっちゅう通る道路の沿道にたくさん並ぶ家々の様子は、よく見たり知ったりしているようでいて、実はそうではない。ちょうど今頃は、街中に花がいっぱいの季節であるから、住宅の垣根や庭の様子に目が行く。その積りになって植物を目的に車中から観察すると、ほとんどの家の周りの様子を、これまで実際よく見ていなかったことに気づく。そして逆に新しいさまざまな発見をする。
 人間にとって特段の目的なく目に映るものは、大きい物や目につき易い特徴ある対象に限られており、それでさえ極めて不正確にしか見ていないのである。その証拠に、建物が壊されて更地のままになっている区画が最近増えているが、そこにどんな建物が長年建っていたのか思い出そうとしても、皆目見当がつかないことが多い。家の中での身近な道具を例にとってみても、それをじっと観察し過ぎると、その物がいつも見馴れたものではなくなり、全く見知らぬ珍しいものに変身するのも、その例証と言える。
 いったん街中から山野に出て、今が最も美しい新緑が芽吹く周辺の里山を眺めるとどうであろうか。山々の遠景は形状も色彩も具体的というよりは抽象的かつ図形的である。その中でも青々とした杉林は、淡い雑木の緑をバックに濃青を対比的に見せているのだが、それに対しては、逆に観察力よりも想像力が働いてくる。山際から山頂まで様々な形に拡がるこれらの杉林の抽象画のような配合に対しては、かつて村々の人たちが総出で山に入って植林をしたであろう往時の姿を、古い写真のように具体的に目に浮かべてしまうのである。

(2013.4.21日曜 記)