西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

805号 Law and Order

2013年04月22日(月)

 アメリカの犯罪・裁判物の映画を見るとき、裁判が契約の一部のように感じる。もちろん民事事件は契約を裁定するのだから当然にしても、刑事犯罪であっても実にあっさりと司法取引が行われる。自白したり他の大きな事件の解決に協力するのなら、検事と被告が裁判官を入れて相談をし、減刑や放免が平然と行なわれるシーンを見る。日本の場合であれば、事件の真実性を最大限まで追及するという潔癖があって、大きな事件になればなるほど求刑に十分な証拠を集める以上の手数をとることになる。そこでは原告・被告間の適当な取引などというのは考えられない。
 また、罪を犯したかどうかを、被告は自分からほとんど言うことがなく、追及できなければ最後まで白を切る場面が多い。しかし、どうにもならなくなれば、態度を弁護士と一緒にガラリと変え、あっさり事実を認め減刑を得ようとする。宣誓はしても、すべて一種の外形的な駆け引きとして見える。
 これらは映画から推量する出来事なのであり、日本の映画が日本の警察や裁判とかなり違うのと同様かもしれぬが、それにしてもアメリカの刑事捜査や裁判から感じることは、そこに取引要素が混入していると見るのではなく、刑事裁判そのものが告発者と被告との乾いた取引と見えるのである。日本のように調書による一方的行為ではなく、まるで個人の双方間のダイナミックなやりとりであるから、国家が国民に対して強制したり、相違った判断をすると言った観念は、基本的に入りこまないように見える。

(2013.4.6  記)

 15日に起ったボストンマラソン爆破事件の容疑者の裁判見通しについて、司法専門家に対するCNNのインタビューを視た(今日2013.4.21)。このニュースは、原告と弁護士がどんな主張をしあうか、州によって死刑がないとか、かなりドライな調子で論点をクローズアップさせていた。次に容疑者の父親にもCNNが取材している場面が出てきた。これも雰囲気が倫理的ではなく裁判的なやりとりを車の内と外で行っていた。
 それぞれに言い分のある状況が無表情に画面に現出しており、これからの日本にもこの種の現象が日本的な形にかわって起きるやもしれぬと思うのである。

(2013.4.21 記)