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792号 「世界文明史の試み」を読む

2013年04月01日(月)

 12月9日の毎日新聞(10面)に2012年『この3冊』という恒例の年末読書の特集があり、京大名誉教授の伊東光晴さんなど毎日新聞の書評欄を執筆している9人が今年の3冊を挙げておられるのだが、熊本県立大理事長の五百旗頭真さんと明治大教授の鹿島茂さんが同じ本を選んでいた。山崎正和著「世界文明史の試み 神話と舞踊」(中央公論新社2011年)である。
 本書の序章では、近代化の貫徹、近代化への不可逆の流れの確立(工業化の興隆、市場経済の振興、国民国家の強化など)という点で、現代の世界文明は全体として統一された趨勢にあると述べる。しかし同時にポスト工業化と呼ばれる次の段階が現実的になるなど、かつてロストウが提唱し近代化の法則と考えられていた「離陸take-off」説(拙注:五つある経済発展段階の第三段階で、1人当りGNPが持続的に上昇する段階が存在するという説)が揺らぎ、近代化の過程そのものの普遍性も疑われている。さらに根本的な問題として、「近代化」がいつから始まったかが問題であり、これの答えによっては近代化の概念そのものが崩れ去ると指摘している(10、11頁)。
 そこで著者は序章において「普遍化しつつある現代文明の始原を遠く先史時代に求め、人類の文明史を終始一貫した趨勢の連続として見たい」と結論を先取りして述べる(11頁)。
 人類共通の財産となり現代文明を統一させたものの一つとして科学が挙げられているが、科学は二つの世界観を併せ持っていたとしている。一つは目に見えない世界を「解釈」する思索であり、もう一つはたえず現実を人の手の届く対象として捉え、それを試しそれを変え、世界を拡大すべき地平と見なす思想である。
 すなわち「手の届かぬ世界を遠くから解釈すること。そして手の届く現実を認識し、改造し、それを拡大すること。世界にたいするこの二つの態度の区別は重要であり、これは有史以前に始まり、予想可能な未来にまでつづくだろう」と見ている。そして、この論考の一貫した立場になるはずであるとしている(14、15、16頁)。
 そして、人類共通(普遍化)の価値としての身体運動へと話しが展開する。野球やテニスやサッカーなど商業スポーツの影響や1896年に始まったオリンピックの寄与により、二十世紀におけるスポーツは地球規模で普及し価値の共通化に重要な役割を果たした。人間の身体運動は、生産や実用の世界に限られているのではなく、それはつねに身体の構造のなかに秘められている。外界に働きかけるためだけではなく、身体が身体として存続するために、たえず自ら機能している。生産的・実用的な身体運動が「する」身体の営みとすれば、このもう一つ別の身体運動があって、それは「ある」身体の自己確認の営みである(26、27頁)。
 著者は評論家であり劇作家であるが、人間の身体が「する」身体と「ある」身体という二つの対蹠的な面を有するという視点を基に、文明史というものを考察している。
 「する」身体とは「私が持つ身体」であり、身体を意思の道具にして、開かれた世界に向け冒険的に働きかけるものである。一方の「ある」身体とは「私である身体」であり、直接に自己の身体を確認するものである。「する」身体は対他者的、「ある」身体は対自己的と言える(30、31、66、104頁)。
 この二つの「身体」の説明を前提とした上で、文明の発生へと話を進める。さまざまな精神の働きは、身体そのものの機構から発生しうるとしており、これは劇作家ならではの視点であろう(104頁)。
 たとえば自然数の誕生については、5本の指をそれぞれ開き指さし数える、また開いたその手を握り締めるという反復行為により、10の数字が生まれ十進法に繋がったと推定している。この場合、外界の対象物を数える5本の指は「する」身体の一部であり、握り締めたときの内部感覚としての緊張感が「ある」身体だとしている。両者は関係し連動している(79頁)。
 数や空間や時間といったかつては先験的と見なされてきた感性の基本形式が、じつは意識の発生以前に身体から直接に生みだされたのではないか。また反復を宿命づけられた身体運動(たとえば鼓動や筋肉の収縮など)が、必然的に慣習を形成し、この慣習の亀裂ないし反復行動の蹉跌の信号こそが、人間性の根幹である意識や意思に繋がる。このことにより意識や意思が生まれ、自然法則にのみ従う動物ではなく文明史を創造しうる先史人が出現した。これが文明の誕生のメカニズムという理論である。(104、105頁)。

 また、文明の成長段階でもある国家の成立については、ヨーロッパの都市国家を例に次のとおり述べる。
 都市国家は、言語、宗教、生活習慣、儀礼や祭典、地理的環境、政治権力など、互いに異質な絆の複合的な統合力の産物である。しかしそれぞれは絶対的な優位性を示さず、どれかが欠けると統合が崩れるというような必然性はない(216頁)。つまり共通言語や宗教によって、文明が成立するわけではないとしている。
(なお、言語、宗教、儀礼や祭典などに関し、それぞれ「する」身体と「ある」身体の側面について説明がなされているが省略する。)

 続いて文明の変革について述べる。
 文明を変革するのは、現実を具体的に変える人間の「する」身体と、世界を感受し解釈する「ある」身体との協働による。二つの身体はそれぞれに対応する二つの世界像を抱いている。「する」身体はいわば「世界開豁」(世界が広く開けているということ)のイメージに駆られ、無限の外界に働きかけ闘いを挑み、自己を拡大しようとする。逆に「ある」身体は、「世界閉塞」のイメージに身を委ね、有限の外界の感触を吸収し、その意味を読み解こうとする。文明が躍動するのは、この二つの身体がそれぞれに最大限の力を発揮する時である。そのためには、まず二つの世界像がそれぞれに強化されることが条件になる。そのように考えると、西洋文明は他に例を見ない条件に恵まれ、二つの世界像の対立を人間に鋭く自覚させる環境をもたらした。広義のキリスト教が「世界閉塞」の感触によって人びとを包み、同時に他方では、諸国家並立の政治が、国境の外に「世界開豁」を感じさせていたからである。(313、314頁)
 キリスト教と自然科学の関係についても次のように述べる。
 西洋の草創期の科学者たちがキリスト教神話のただなかに身を置いてその延長線上で思索を練り、それとの葛藤によって学説を磨いていた。デカルト自身、幾何学の定理の中にすら神の自由意思を読み取っている。万有引力を自然現象の根源的な原理と捉え、それによる数的秩序を発見したニュートンでさえ、秩序を動かしつづける力の原因として神を認めていた。(337頁)
 西洋文明においてはキリスト教、そしてキリスト教の副産物としての自然科学・科学技術が二つの世界像の強化の役割を果たした(449頁)。
 現代では科学が生み出した技術は膨大であり、今後ともこの傾向は強まると予想されるが、科学は世界を解釈する学問として「ある」身体の営為であるのに対し、技術は「する」身体に属している。科学技術をひとつの単語として使った場合、両者が混同することになり「誤解を招きやすい言葉」である。

 著者は、個人が文明の加速度的な進歩に耐えられなくなり、進歩の終焉を迎えることになるというガンサー・ステントの「進歩の終焉」(1969年)を引用している。その一方で、「明日、地球が滅びるとしても、今日、林檎の樹を植える」という古くからの箴言も引く。文明誕生の発端でもあった日々の実用的な作業が、行われ成就できるのであれば文明は続くであろうと、「強がりでも負け惜しみでもない」積極的な気持をこめながら、身体に立ち戻った議論をもって本書を結んでいる(450、466頁)。

(2012.12.24 やや不十分な要約として記す)