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イッセイエッセイ

787号 起源-身体・習慣・意識・文明

2013年03月15日(金)

 川の河口がどこかは、よほどの大河でない限り割合はっきりしているが、その川の究極の源がどこから発しているかは、そんなにはっきりしてはいない。分水嶺の向こう側まで行かないのは確かにしても、あちこち捜し出そうとしても切りがない。
 現人類がどれほど遠い昔に誕生したのかについても、調べてゆくうちに次々と新しい発見があり、起源が古くなる一方である。地球よりは古くないにしても、人間自身のことが十分究明できないのである。自分たちが知っている物の名や土地の名前も、いつからそう呼ばれているのか、どんどんと手繰ってゆくことは困難である。言葉そのものが元来そういう性質をもっている。
 ものの起源に対して人間は強い関心をもっているが、調べれば調べるほど、起源はより遠くにさかのぼることになる。そして諸説が汾々として得体が知れなくなる。
 山崎正和著「世界文明史の試み 神話と舞踊」(中央公論新社2011年)は、この著書の前半で「意識」の起源を論じている。
 人間の精神の原初形態をさぐるには、三つの方法よりほかはない。考古学的な資料か、先史的な生活を残す少数民族の生態か、人間自身が太古から引き継いだ内面の働きを調べるか。
 人間の精神を最も自然的な次元でとらえると、人間の身体の特徴的な往復運動に起源を求めることができる。人間の身体が、関節や筋肉を動かしたり、呼吸をしたり、瞬きをしたりすること、さらには音の発声をすること、これらはわれわれの日常的な経験からしても、身体としての習慣を形成している。そして身体的な習慣の中に生ずる裂け目、あるいは習慣的行動が躓くところに、意識というものが生まれてくる。「意識的」な行動の前に、「習慣的」な行動がある、意識は身体の習慣の中に源がある。
 したがって、意識が自由な存在だとする近代の理解、あるいは意識が人間の行動に対する指令塔であるといった考えは、人間のあり方の根本に立ち返るとどうも正しくない。意識の起源は、身体の習慣の中にあり、言語の中にあるという考えである。
 これを拡大、飛躍させて「文明」についてみた場合、人類の文明は、自然に形成された古い慣習と再形成された新しい慣習との間における不断の克服の過程である、という説明に行き着く(と述べているように理解する)。

(2013.3.9 記)