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イッセイエッセイ

783号 関心の連想

2013年03月02日(土)

 何かに対して関心をもっている場合には、自然にそれに関した情報に目が向き、小さいわずかな情報も目にとまることになる。ともかく人間の頭や体は、このような目的性をもった働き方をする。
 先週末の土曜日、日野川の堤防を通った。
 そのとき河原や中州には、長く伸びた薄などが枯れたまま広がっているのが気になった。そして、このようなゴミになる雑草を今の季節に燃やして退治すれば、もっと河川や海岸がきれいになるのではないかと思案してみた。しかし燃やすと焼畑のように肥料になってしまい、もっと草が繁茂して困ることになるのか、あるいはまた近くの柳の木に火が移ってはやっかいだ、こんな事をひとり頭の中で自問自答してみた。
 そして週明け月曜日のきょうのことである。
 朝刊(朝日)の社会面をひろげると偶然に目に入ったのが、「春へ 燃えさかる」-白煙を上げて燃える鵜殿(うどの)のヨシ原-という比較的小さい記事と写真であった。
 この大阪高槻市のヨシ原は、雅楽の篳篥(ひちりき)の吹き口(リード)に使うヨシの素材が取れることで知られているようだ。今年の秋にまた良質のヨシを収穫するため、農家の人たちが約35ヘクタールの河原を焼き払ったことを風物詩として載せているのである。
 自分の眼がこの記事に向いたのは、きっと河原を燃やすことに自分の関心が向いていた直後のことだったせいであろうと思った。

 以下の記述は哲学的蛇足である。カントの本には「関心」についての明確な記述がある。
 偶然的に決定される意志が、理性の原理に依存するのを「関心」という。「関心」とは理性を実践的たらしめるもの、換言すれば意志を規定する原因たらしめるものである。それだから或るものに対して「関心」をもつとは、理性的存在者についてだけ言えることである。理性をもたない被造物は、ただ感性的衝動を感じるだけである。
 「関心」は欲望に依存する傾向性ではなく、理性に依存しているものであるが、その中には実践的関心(行動そのもの)と受動的関心(行為の対象)の二種があり、前者が重要である。
  (「道徳形而上学原論」Kantから)。

(2013.2.25 記)