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イッセイエッセイ

773号 日曜随筆

2013年02月15日(金)

○「サザエさんの生き方」と「サザエさんという生き方」とは、言葉としての意味合いはどう違うだろうか。
 「という」という言い方は、ある物を改めて客観的にとり立てて提示し、それに対して一定の断定をし、次につなげるための言葉にちがいない。たとえば「ふるさとの発想」を「ふるさとという発想」、と書く違いである。後者の方は対象との一体感が少ない。
 今日の読売新聞の文化欄を眺めて偶然目に入ったのは、下欄の新刊書の宣伝のところに、好評発売中「山本美香という生き方」・・・彼女は何を考えて生き、何を伝えたかったのか・・・の広告。そして上欄に目をやると、「本よみうり堂」には、岡田温司・評の「加藤周一という生き方」という本の書評が出ている。
 この二つの共通した書名である「○○という生き方」は、こういう表現で書かれることは遠慮したいであろう。

○同じく宇野重規氏・評から。コリン・ヘイ著「政治はなぜ嫌われるのか」―民主主義の取り戻し方(吉田徹・訳 岩波書店)。宇野先生の書評によると、現代における世界共通の気分(評価というよりは)として、以下のようなことがあげられるという。
(1)政治家はいくら建前で公共を語っても、実際には自分の利益しか考えていない。(2)政治家は自分の狭い利益を追求することで、最終的には(企業などの)大きな利益にからめとられている。(3)政府はせっかくの税金を無駄に使っている。
 世界の多くの民主主義国家の有権者が、このように同じように考えているという問題がある。その原因は人々の政治への見方が1970年以降に顕著に変ったのであり、それは政治学における「公共選択論」が真犯人ではないか(と著者は考えているとの評)。
 公共選択論によれば、政治家も公務員も一般の個人と同様、費用と効果を計算し、自己利益を合理的に最大化しようとする存在と見る。これが学界、社会一般、そして政治家の考えにも影響を及ぼした。このモデルは、市場化や民営化を進める「新自由主義」とも相性があり、公共選択論は考え方として自己実現的な構造をもっているので、人々がそう思えば思うほど実際にそのようになってしまう。その結果、政治はますます嫌われ、棄権者が増大するという悪循環になるので、今この悪循環を断つべきだ(という著者の考えは一考に値すると評者)。
 この論法でゆくと、郵政民営化選挙の際に刺客を送ったこと、猛暑が大変だからその間は反原発はやめたこと、等が自己利益の追求というようなことか(との私見)。

○同じく書評、木村汎著「メドベージェフvsプーチン」(藤原書店)杉山正明・評。
 ロシアでは長きにわたって「権力が個人化された政治システム」が連綿とつづいてきた、というのがロシア政治の特徴である。レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、プーチンなど。しかし2008年から4年間のメドベージェフ政権でのロシアの「近代化」路線は、プーチン政治においても、ロシアの生き残りや発言力の維持に必要なロシアの将来への処方箋となるのではないか。

○こんどは北岡伸一(国際大学長)の「憲法改正の道筋」(「地球を読む」読売新聞)から。
 その主張の要点は、天皇を元首とするような改正には反対、9条1項の改正には強く反対、9条2項の改正には賛成だが自衛隊を国防軍にするような改正には消極的(自衛隊法の改正でよい)。また96条改正には賛成だが、その後の方向を明示しなければリスクが多く実効性が乏しく成功はない。何よりも先に改正すべきは、59条2項について衆議院の提案再議決要件を3分の2から2分の1にすべきことである。これにより国民は「初めて自分の憲法を自分で作り出すことができ、かつ機能する国会を作ることができる」。

○車内ラジオを聴く(録音「農村の幸せとは~家族・食・暮らし~」徳野熊本大教授)
 過疎といわれる農村(例えば災害にあった山古志村、水俣の某町など)は、周りからもそう言われ住民もそう思って不安に感じている様だが、必ずしも実際はそういう現実ではなく、地域は意外としっかりしているという「異見」を述べている。この種の誤った通念は、変容している村の家族や集落を、昔のままの観念で把えようとしているからである。
 親と子の近接居住、車の活発な利用などにより、つながりのネット型化がうまく行なわれているにも拘わらず、この実態が通常の人々の眼には見えにくく、分りにくいのである。家族や集落は何でもすべてを自前でやっており、一部のマスコミや都市住民などが、地方の特化した部分だけをとり上げて話題にしがちなのとは正反対のものである。村から人が出て行ったと見るのではなく、村が外に広がっていると見たらよいのである(といった調子の話しである)。

(2013.2.10 記)