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イッセイエッセイ

768号 消費の国のガリバー

2013年01月25日(金)

 買うことと売ることとは、天と地ほどのちがいがある。売りたい商品が売れることは、モノからカネへの大変身が実現したことになる。そのような意味は、資本論のどこかにも述べられていたと思う。
 一般に市場を眺めた場合、当り前だが買い手は顧客であり、売り手は商人である。なかには例外的に、ブランド性、希少性、場所の限定、幻想感が付着して、商品によっては売り手が幅をきかせて優位に立つこともある。
 現代は商品が満ち溢れている社会であるから、買い手集団としての消費者が、一般に主導権をもっている。消費者は何でも望み、その要求は強力であり、売り手は消費者の要求に応じざるをえない。消費者が多数集中している大都市を、売り手である生産者は効率的な市場と考える。大都市は商品群のコンテストの場であり、そこでの消費者の意向が商品の価値を決定し、商品としての生命を左右している。メディアとしての企業は、おもに大都市の消費者に向けて、商品の価値を宣伝する立場にあり、メディアみずからもまた商品化し、大都市の消費者の関心度に応じて番組や宣伝の良否が試される。そのようにして大都市を中心にした商品市場の増殖・循環が生じ、大都市での市場がさらに拡大する。
 消費者の主権は、いうなれば大都市の主権である。消費は1つの集合として観念することも可能ではあるが、実際の消費は当然一人ひとりが独立しており、消費行動は気まぐれな動きを示す一方で互いに影響し合い、きわめて大衆的となる。
 消費が瞬間的であるのに対し、生産はそうではない。商品となって売れるまでには長い道のりを伴うので、生産はさまざまなリスクと厳しい経済的な競争にさらされる。生産活動は、大都市ではなくその周辺そして地方において展開されることが多い。水・食料・電気などは基幹的・必需的な商品の代表例である。商品の原材料の生産、中間材の加工、最終商品としての出荷も、多くは地方において行われる。生産活動は、さらに地方をも超えて世界化の傾向にあり、消費者にとって身近な商品ほどそれが外国のものであるといった矛盾さえ現われる。
 また商品についての宣伝は、生産の過程を消費者に対し極限までおおい隠して行われるのが通例である(例外として農産物の地産地消はある)。こうして消費と生産とは、ますます場所的に分裂し、経験的に互いに無関係に感じられるようになる。もっと極端に云えば、都市の消費者にとって商品は使うだけのものとして現われ、作られたものとしてはまるで見えない。
 大都市では、消費するだけで作ることがほとんどなく、モノの作られている様子がまるで見えない。田舎の農家のように、消費もするが生産もするというような現実もない。
 一昨年の3.11の大震災とその後の不都合な対応は、生産と消費、作ることと使うこと、大都市と田舎の関係などに、深刻な分裂の実例を示したが、大都市の消費者が問題をどれ程に自覚したかはよく分らない。
 現代の家庭を眺めてみよう。子供は消費そのもの、母は毎日モノを買う消費者である(それだけではないが)。一方で、父はモノを作る人、モノを売る人、サービスする人、モノを宣伝する人であることが多い。経済学では、家計は収入を得てもっぱらモノを消費する主体と把えられているが、家計を外から見れば、この労働や稼得こそ生産活動と同義語なのである。
 家庭や家族は、経済学でいう商品(労働力)を売り、そして商品(消費財)を買う社会的単位にもかかわらず、生産・企業と切り離されて、収入・雇用といった用語の中で観念されていることは現実をおおい隠す。
 政治の分野においても経済思想の影響を受け、国民をますます消費するだけの集団のようにみなし、消費者ないし生活者として政治的な働きかけをする。有権者もそのような自画像を描くことになる。
 もし純粋に消費するだけの住民からなるガリバー的な仮想国を訪れてみるとしよう。きっとそうした国の人々は、心は変りやすく気まぐれで、奇抜なものに気をとられ、不満なものに忍耐をなくして反発し、驚きやすく、すぐに怒りを抱くような国民性をもつであろう。そこでは物事の優劣や真偽の区別が十分つかないアンバランスな人間像が描かれた寓話を読むことになるであろう。

(2013.1.14 記)