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760号 中野重治書簡集について(1)

2012年12月30日(日)

 いま「中野重治書簡集」という本を手にしている。ずいぶんに部厚く650頁あまりの本である。福井の図書館にはどこにも中野重治全集は必ずあるが、小説以外で比較的読みやすいと思われる随筆や評論を試しに眺めてみても、何頁か進むうちに停滞してどうも先に行くことができない。
 作家の主張の筋もそうであるが、言い回しにおける折れたり曲ったりの面倒さが残念ながら自分の傾向に合わないのである。中野重治全集には書簡を集めた巻があるはずであるが、今回の書簡だけを集めた「中野重治書簡集」(松下裕、竹内栄美子編 平凡社2012年)が出版されたのである。全集との重複がどの程度あるのかは知らない。
 さてこの書簡に書かれた文章は、実務的日常的なものが多く大体において表現は直載的であり、かえって作家の人となりを色々と知るところがあった。これらの手紙はもちろん作家が生涯書いたはずの手紙の数全体からみて一部であり、やむを得ぬ事情で収集に偏りもあるであろう。手紙は全部で765通(大正12年・1923年-昭和54年・1979年)収録され、宛先人は数えると207人である(数えまちがいあるかも)。妹、妻、娘(長女)の家族に宛てたものの手紙が多い。

 以下は、中野重治(1902-1979年)が、実の妹である中野鈴子(1906-1958年)に宛てた手紙の中から極く一部を抜すいした。
 「かういふ手紙を書いているようでは仕方がないといふ気がする。一般に苦痛の告白などといふものは役に立たぬもので、具体的に世に働くことが大事なのだから」(1941年)

 「十七年度年貢米の件は完全にすんだ事と思ひますがうまく行つたでせうか」(1943年)
 「今度の木材供出で、セドの大ケヤキ三本は国家に出すことになると思ふが、金を貰はずに上げてしまったらどうかと思ふ」(〃)
 「今年度からは、去年百円で暮らしたものは六十円で暮らさねばならず・・・よほどやりくりに気をつけ、生活を最小限度に切りちゞめることが必要だ。これはよく~考へてやつて貰ひ度いと思ふ」(〃)
 「卯女マサノ疎開後小生爆死等の場合は何等かの方法で一本田へ通知ある筈」
 「但し遺骨等はとゞくかどうか分らぬから、遺骨が行かなくても親類等に通知してごくカンタンな葬ひをすること」(1945年6月12日)
 「遺言状・・・
 ○蔵書ハ金ニ代エテヨシ。但シ分散セザラムコトヲ望ム・・・
 ○柳田国男氏ニ深ク感謝ス・・・
 ○余ガ日本文学ニ貢献出来ナカツタコトハ残念デアル・・・
 ○亡キ父藤作ノコトヲヨク聞キ、コレヲ卯女ニ語リキカスベシ・・・(1945年6月23日中野鈴子宛)
 「二十三日から再び国会。国会というところは化物屋敷のようなところで、実際行つてみると、あのため今まで国民がどこまで馬鹿にされ、ふみつけにされて来たかということが骨身にしみて分かる。いくらか民主化された現在でさえそうだから、今まではどれ程だつたか、考えると身の毛がよだつ」(1948年1月高椋村一本田宛)

 「ケヤキは板にひくとヒノキの三倍とあつたが、何倍かが問題でなく、引き賃が何円かかるかが問題なのだ。・・・庭の松の木が仆れて屋根をいためぬようにだけ(ツツカエ棒)しておいてほしい」(1950年11月19日)

 「こういう馬鹿なことを書いてよこすのは止めにしてもらいたい。わが目のウツバリを見ずして人の目のチリをかれこれいうな。兄妹だからこれをいうのだ・・・他人のセンキを頭痛に病まずに、自分の病気を早くなおせ。人間と生活とに対してもっとケンソンになれ。」(1955年7月1日福井市赤十字病院第一病棟五十五号中野鈴子宛ハガキ)―これが妹への手紙の最後のもの。

 以下に、妹の鈴子が没して一年後のこと、妻と娘つまり原泉・中野卯女に宛てた手紙(1959年4月15日)からの抜粋を当時の福井の郷里での様子を知ることができるので加える。
 「金沢は雨気味だったが福井は快晴。人も大入満員の姿。・・・案外に暇なく、金沢も福井も街を見ず。・・・芦原のべに屋という家に泊ったが、ここはむかし~、四十五、六年前に父母妹たちときたことのある家で、地震、火事で全然かわってきてるがそれでも何となく昔の悌あり。十丈(外に床の間)、四丈半(外に床)、三丈、五尺に二間半ほどの縁側、それに湯殿、便所のついた部屋で、一ばん奥にあって貧乏人には勿体ない話だ。これから東尋坊なんかをちょっと見て京都へ向う。都留君、小林君は金沢、福井方面は初めての由。小林勇君は昨夜おそく京都まわりで帰っていった」

 郷土の作家である高見順宛にも二通あり。
 「詩集ありがたく頂きました。河出の大系には少々抄しておきました。しかし昔の(赤と黒時代?)の作品はないのですか。・・・詩の成長史という点でいいと思うのです。・・・これからも変化しうるものだということを示したいと思うのです。分っていたら知らせてください」(1951年5月19日)―雑誌への寄付もあわせて依頼している。
 「・・・河出新書『国民文学と言語』のなかの『現代と現代文学の言葉の問題』、あれの書かれた時と発表された場所をお教えねがい度   僕ははじめて読み   ちょうどいい言葉みつかりませんが   教えられました」(1954年10月19日)

 桑原武夫(1904-1988年敦賀の人)宛にも二通あり、そのうちの一通から以下に。
 「『日本文化の考え方』『発展しつつある国々』頂きました。『国語教材論』のうち反映論についての貴説いささか異議あり。もっともそういわれても仕方のないような所あることは認めざるを得ず。・・・〆切を一ヶ月、いささかハッタリも使ってのばしてもらったけども頭のいたい話です。なにせこの先生(小生註-吉川幸次郎先生1904-1980年のことらしい)は、漢文のよめるものが、中国を入れて世界に二十人ほどいるがとか言ったり・・・」(1963年7月3日)

 手紙が十三通収録されているドイツ文学者の杉山産七(1902-1988年)は四高での中野の友人であり、「歌のわかれ」の松山内蔵太(くらた)のモデルであると解説されている。この方は小生が大学二年のときにドイツ語を習った訳のうまい老先生である。

(2012.12.16 記)