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イッセイエッセイ

754号 人はわからない

2012年12月23日(日)

 前号で書いたモンテーニュ著のエセーに、その婦人物語の一節が載っているはずだと探してみたが、そのエピソードを見つけ出すことができなかった。ついでとはいえ、久し振りで眺めた本なので、心に留まった部分を次に一、二記す。

「用事は明日」(第二巻第四章)
 この章では、手紙を受け取った二人の行動について例示し、比較をしている。
 一つの例は、プルタルコスの講演中に、皇帝からの手紙を受け取ったルスティクスである。ルスティクスはその講演が終わるまで手紙を開封しなかった。人は新しいものに対する貧欲な欲望のために軽率性急な行動をするものだがルスティクスは落ち着いて行動したと、プルタルコスやその場にいた人々から賞賛されたという話しである。
 もう一つは、テーバイの僭主アルキアスである。謀叛の計画の一部始終を書いた手紙が届いた際、アルキアスは食事、「用事は明日だ」と開封を延ばし、その結果滅ぼされてしまう。
 これらの話に対しモンテーニュは、
 「賢人が他人のためを考えて、あるいは何か別の重大な用件を中断しないために、自分にきた知らせを聞くのを延ばすことはよいことだと思う」けれども「自分一人の利益や快楽のために、とくに公職にある人の場合はなおさらだが、そうすることは許すべかざることだと思う」
と記している。
 日常生活や仕事の場面においても、何かをしている最中に別の用事が飛び込んで来ることはしばしば起きる。その用件が聞くべきほどの事なのか、後でもよいことなのか、どちらかは聞いてみないとわからない。経験的に言えば、今している仕事もまた入って来る話も、比較して悩むほど重大なものは少ないことが多く、その場で聞く方が楽な習慣といえよう。なぜなら極めて重要な情報ならば、有無を言わずに入れ込まれるであろうし、それには及ばぬ用件は急用でもなく、たいてい処理そのものが遅れたために結果、急用になっているに過ぎないからだ。

「われわれの間にある差異について」(第一巻第四十二章)
 モンテーニュは人間の評価について、
「われわれ人間を除くあらゆるものはそのもの固有の特質だけによって評価されている。われわれが馬を誉めるのは、逞しく速いからであって、馬具が立派だからではない。(中略)なぜにわれわれはこれと同じように、人間をも固有の価値によって評価しないのか。」
と記している。確かに人間以外のものの固有の価値の数は、人間に比べるとはるかに限られているように思う。
 ここで、人間の固有の価値とは何なのであろうか。
「その職務にふさわしい健康で活潑な身体をもっているか。どんな精神をもっているか。その精神は美しいか、有能であるか、幸いにもあらゆる働きを具えているか。自分のものによって豊かであるか、それとも他人のものによって豊かであるか。そこには好運が手伝っていないか・・・」
を見極めねばならないと記している。
 モンテーニュの見極めるべきという意見はさておき、その人と長く付き合っても、なお人を見極めることは困難なことであろうと思う。価値は、立場や周りの環境によっても変化し、絶対的な判断は難しいからである。まして、採用試験のように短期間の判断の場合は一層難しいであろう。

 日本の江戸時代、荻生徂徠は人の選び方に関して、次のように「問答書」で述べている。
 「人を使い損うまいと思うのは、聖人にもまさろうとする考えであり、大きな間違いである。人物を知ってから用いるようなことは不可能であり、用いてみないと分からないものと思いください。」(エッセイ350号参照)
 人を見極めるということに関して、フランシス・ベーコンは「随想集」で様々述べているが、どうやら人物評価が困難とはそんなに思っていなかったらしい。
 「能力にいちじるしい差異がない場合には、有能な人より平凡な人を選ぶほうがよい。さらに、本当のことを言えば、俗悪な時代には、有徳な人間より活動的な人間のほうが役に立つ」(支持者と友人について)
 「人物を理解することと、事柄を理解することとは別である。人の気性には精通しているが、実際の仕事については余り有能でない人が多いからである」(狡猾について)
 また、ラ・ロシュフコーは箴言集の中で、次のように言っている。
 「にせものがこれほど普遍的なのは、われわれの素質が曖昧模糊としたもので、われわれの目も同様なためである。」(エッセイ576号参照)

(「エセー」モンテーニュ著、原二郎訳 岩波文庫1991年)

(2012.12.7 記)