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750号 歴史・教科書・歴史小説(井上靖『風濤』)

2012年12月09日(日)

 井上靖の「風濤」は、全集の第十五巻に城砦、楊貴妃伝と並んで収められている歴史小説である。
 ラジオ番組「文壇よもやま話」に井上靖の五回シリーズがあり、二十歳代に読んだ「天平の甍」の自作朗読なども紹介されたのだが、解説の大村彦次郎氏(元文芸誌編集長)が、もっとも好きな作品は「風濤」(昭和38年)であると述べられていたので(聴き手は宇田川清江氏)、一読することにした。
 この小説は十三世紀、元の圧迫をうけ植民地化してゆく高麗国(918-1392年)が、さらに元の日本侵略の手先に使われるという苦衷と辛酸の歴史を高麗の立場から描いたものである。
 井上靖(1907-1991年)の歴史小説については、大岡昇平による実証批評もあるが、これは鷗外の「堺事件」などに向けられた史実に対する歴史批判と同じ論調かと思われる。
 小説に使えるようなこの時代の歴史的資料が、執筆当時どの程度ありえたのかはわからないが、かなり困難な取材が必要であったであろうし、破綻なく小説化するにはもっと難しかったであろう。
 大国である元と風濤の彼方にある日本との緊迫関係の中で、朝鮮半島に位置する高麗王朝の没落運命を描く訳であるから、歴史小説としては容易な技ではないことになる。解説には執筆に当って、「元史」や「高麗史」の解読と京都大の東洋史研究者の助力を得たと記してある。
 小説で語られるのは、そのほとんどが元への悲劇的な入朝外交の繰返しであり、それはまた高麗王朝の重臣であった李蔵用、金方慶らの、折衝もむなしく属国へと転落してゆく高麗の衰亡記でもある。現代の国際紛争にもよく見られることであるが、読み進むうちに交渉事件に伴う特有の反復感をおぼえ、小説の半ばあたりで、元寇の実際場面はどうなっているのかと、先をさがして頁を繰ってしまうことになる。しかし小説の全150頁(全集575頁~723頁)のうち、戦闘の現実描写はわずかに高麗史からの記録を引用するのみである。
 元や高麗の日本への国信使が渡航に躊躇しまた実際も何度か九州上陸を阻まれるのは、半島と対馬や九州の間に横たわる海の存在であった。それはこの小説の「風濤」という題名とも関係している。
 例えば、
 「風濤艱難の一事をもって、日本渡海の可能ならざりし」
 「巨済県ニ至リ、遥カニ対馬島ヲ望ミ、大洋万里風濤天ヲ(カケ)ルヲ見、(オモ)エラク、危険カクノ如シ」などと。
 また、ほとんど描かれていない元寇の顛末は、船団と兵士の出航と帰航の場面を描くことによって、間接的に表現されている。
文永の役(1274年)については、
 「都元帥忻都の率いる元麗二国の軍二万五千が、高麗人の手によって造られた兵船九百艘に分乗して合浦を発したのは十月三日であった(略)・・・十月三日以降、開京では朝と夕刻にすべての寺院で鐘がつかれた。出軍した兵船が無事に帰還することを祈る打鐘であった・・・クツルガイミシ(注、太子諶に降嫁したフビライの(むすめ))が開京の王城へはいって(注、十一月五日)から二十日程して、焼けただれるような赤い夕陽を浴びて合浦の入江へ、十二艘の兵船がはいってきた。どの船も大きく破損しており、帆柱は申し合わせたように、一本残らず途中で折れていた。・・・征討軍二万五千のうち戦死または溺死したものは無慮一万三千五百人、その兵船の大部分を失うという報が開京の忠烈王の許に届いたのは十二月の初旬であった。」(全集663~665頁)
弘安の役(1281年)については、
 「実際に九百艘の船団が合浦の港を発したのは五月三日の早暁であった。高麗の兵たちの乗っている二百艘の船団の中、百五十艘が第一線団として港湾からまっさきに姿を消し・・・
 忠烈王が合浦について三日の後、閏七月十六日に、金方慶の乗った船が港にはいって来た。船は大破し、兵は傷ついていた・・・
 敗報が上都の行在所の世祖フビライの許に届いたのは閏七月二十九日であった・・・
 その後も元の日本征討の企ては思い出したように何回か議に上ったが、その度に立ち消えになった。そして至元三十一年(西暦1294年)世祖フビライ葬ずるに及んでここに全く東征のことは止むに至った。」(全集721頁~723頁)

 さて世界史の教科書では(「詳説世界史」山川出版1999年)、高麗に関する記述は、次のような説明が簡単になされている。
 「朝鮮では10世紀に王建が新羅にかわって高麗をたて、半島を統一して開城(かいじょう)を都とした。高麗は唐と宋の制度を採用したが、やがて(・・・)武官が政権をにぎり、モンゴルの侵入をうけると、ついに(・・・)その属国となった。高麗では仏教が国家の保護によってさかんになり、『大蔵経』も刊行され、製陶の技術が進んで高麗青磁がつくられ、世界最古といわれる金属活字が発明された」(「隣接諸国の変遷」94頁、傍点小生)
 元寇は、日本史における数少ない世界史的な事件だと思われるが、日本史の教科書(「詳説日本史」山川出版1997年)ではどう記述しているかといえば、
 「再度にわたる襲来の失敗は、海をこえての戦いになれない元軍が弱点をあらわしたことや、元に征服された高麗や南宋の人びとの抵抗によるところもあったが(注)、幕府の統制のもとに、おもに九州の武士がよく戦ったことが大きな理由であった。」(「元寇」104頁)
 「(注)とくに高麗は30年あまりモンゴル軍に抵抗したのちに服属したものの、以後もさまざまの形で抵抗を続けた。フビライは日本との交渉や、日本の攻撃に高麗を利用したが、高麗の元に対する抵抗の継続は、日本遠征の障害になった。」(同頁)

 昨日は小浜において、東京大学の玄田教授などから希望学報告会があった。たとえば、若狭の「積み重なる」文化や歴史の評価、あるいは、バラバラな事柄や出来事を「エピソードとして語る」べき、といった提案が先生方からなされた。(12月1日小浜であり、12月2日福井会場の予定)。
 世界史の教科書にみられるように、歴史上の説明を「やがて」あるいは「ついに」(上掲傍点)というような単なる時間の流れで出来事的に列記するだけでは、歴史としての臨場感やそこに生きた人達の心情というものを十分に実感することはできない。また日本史の教科書の場合のように、歴史的事実に対し様々な理由をつけて原因と結果を論じてみても、それだけでは表面的で観念的な歴史評価にしかならない。
 そうした限界の中で、歴史小説がどれほど歴史理解に役立つかは微妙なところもある。しかしそこにエピソードとして語られる人々の思い悩みや決断は、教科書風の外面的な無味乾燥を補うための材料を提供できるのではないか。
(井上靖全集 第15巻 新潮社1996年)

(2012.11.10/12.2  記)


 今日は高校の社会科の先生達と意見交換をする機会を得た。印象としては自分たちの生徒の頃に比べて記憶すべき部分が少なくなっている(とくに地理)ことに気づかされた。今後の授業改善の共通理解としては、面白い授業のための工夫教材の共有化(とくに大量退職することになる先輩教員のノートやノウハウの伝授)、情報資料の拡充、入試問題の徹底活用、記憶術・語源研究、各自の古典読書など、が必要ということになった。
 

(2012.12.7 記)