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イッセイエッセイ

744号 長明の発心集から(慶安四年板本)

2012年11月21日(水)

 発心集は鎌倉初期の仏教説話集で鴨長明(1155~1216年)の編著である。慶安四年(1651年)に刊行された流布本は、全八巻で百二話が集録されている。その中味は発心(悟りを得ようとする心を起こすこと)、遁世(隠棲して世間の煩わしさから離れること)、極楽往生(苦しみの多いこの世から極楽浄土に生まれ変わること)、仏教霊験(仏の力による摩訶不思議な現象)、高僧伝(仏法に通じ徳が高い僧が行なった、普通の人では真似できない行動)などに関する話が収められている。
 発心集の序のなかで鴨長明は「発心集は見聞きした事を書きとめたもので、賢い人の行動を見ては自分にはとてもできないと思いながらも目標とし、愚かな人の行動を見てはむしろ自分の態度を反省するきっかけとする、こうした目的のために書き留めたものだ」と述べている。
 発心集のなかには、越前や若狭の土地が舞台となっている物語がないか捜してみたが、残念なことに見当たらない。しかし「コシ」という記載がある物語があり、これは冒頭の第一話にある。原文を読んでも越の国が今のどのあたりのことかは判然としかねるが、そこに出てくる大きな川を九頭竜川として想像してみよう。
 なお以下、便宜の口語訳は、物語の大筋に重点をおいた意訳である。
<発心集第一 玄敏(げんびん)僧都、遁世(とんせい)逐電(ちくでん)事(玄敏僧都、遁世逐電のこと)>
 昔、玄敏僧都という人がいた。山階(やましな)寺の高貴で博識な僧であったけれど、現世を厭う気持ちが強くて、他の僧との交わりを好まなかった。玄敏の高名な噂を耳にした桓武天皇が、無理に召し出されたので仕方なく出仕した。しかし、桓武天皇の第一皇子の平城(へいぜい)天皇が大僧都の位をお与えなさろうとするのを、再び世俗にまぎれたくないとして辞退した。そうこうしているうちに、弟子にも使用人にも気づかれることなく、どこへともなくいなくなってしまった。その後、何年か経って、玄敏の弟子が越の国の方へ用務があって出かけた道中に、大きな川があった。
(原文)其後、年来(としごろ)経テ、第子(でし)ナリケル人、事ノ便アリテ、コシノ・・・方ヘ行ケル道ニ、或所ニ大ナル河・・・・アリ。(傍点小生)
 川を渡るために渡し舟に乗り、その渡し守を見ると、汚そうな麻の着物をきた法師であった。「誰かに似ているなあ」と思っていると、居なくなって何年も経った自分の師の玄敏僧都であった。お互いに気が付いた様子で、走り寄って声をかけたかったが、舟には人も多くいたので変に思われるだろうと思い、「帰りにゆっくり話そう」と思ってその場は通り過ぎた。こうして、(何日か後)帰りにその渡しに来てみると別の渡し守であった。尋ねてみると、「いつも念仏ばかりを唱えていて、多く船賃を取ることもなく、食い扶持以上のものは欲しなかった。里の人も好感をもっていたが、先日急にいなくなった」ということであった。(112、113頁)
 これが冒頭の話の前半部分にある「コシ」という記載のある場面である。
 この玄敏僧都にまつわる話は、冒頭に続く第二話にも紹介されている。
<発心集第一 同人、伊賀国郡司被(つかは)(たまふ)事(同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふこと)>
 玄敏僧都は、伊賀国のある郡司のところに(身分を明かさず)頼み込んで使用人となった。三年ぐらい経ったころ、この郡司が国守に対して具合の悪いことをして郡司の任を解かれ、伊賀国から追放の処分になった。このことを伝え聞いた玄敏は、郡司に対し「京に上って事情を説明し、それでも駄目であったら国を去ればよい」と諭した。郡司と玄敏はともに上京し、伊賀の国を領していた大納言の屋敷に行くと、玄敏の姿を見た屋敷の人々は膝をつき、大納言も急いで玄敏をもてなした。そして、玄敏から大納言に事情を説明すると、郡司の処分取消どころか、これまで以上の待遇が決まった。郡司はあまりにも想像外のことで言葉が出ず、「宿に帰ってゆっくりお礼を申し上げよう」と思っていたところ、玄敏はいつのまにか居なくなってしまった。(114、115頁)
 以上の冒頭の二話は盛名をよしとせず隠遁の道を選んだ玄敏僧都に関する高僧伝である。
 その他、面白いと思った説話を以下に記載する。

<発心集第四 肥州ノ僧、妻(なる)魔事 (べき)(おそるる)悪縁事(肥州の僧、妻、魔と為ること 悪縁を恐るべきこと)>
 肥後の国にある僧がおり、以前は戒律どおりの僧であったが、中年になってから妻帯した。しかしながら、極楽往生をあきらめず修行に努めた。妻は愛情深くこの僧によく仕えたが、僧は妻に気を許さず、「私が死んだ際も決して妻には知らせないで欲しい」と相知れた僧に伝えていた。その後、この僧は思う通りに死を迎え、西に向って息絶えた(往生した)。
 しばらくして、彼の妻にこのことを伝えると、妻はにわかに豹変して「何世代も前から繰り返しこの僧が往生するのを妨げるために近づいてきた。せっかく親しくなったのに今日取り逃がした」と悔しがった。(残念ながら、この妻の正体や夫との因縁に関する話は出てこない)。
 長明は「どんなに修行を積んだものでも悪縁で妻子をもってしまうことはある、自分のような凡夫は女性には近づかないのに越したことはない」と結んでいる。
(原文)ソノ発心ノホド隠レナケレド、悪縁ニアヒテ妻子ヲマウクルタメシ多カリ。我モ人モ凡夫ナレバ、タダ近ヅカヌニハシカヌ也。(163、164頁)

 一方で夫婦の愛の深さを示す説話も収められている。
<発心集第五 亡妻(ぼうさい)現身(げんしん)帰来(かえりきたる)(おっと)(いえ)事(亡妻現身、夫の家に帰り来たること)>
 片田舎に男がいた。長年互い信頼して連れ添った妻があった、子を産んでから重く病気を患ったので、男はつきっきりで看病した。いまはの臨終のときに妻の髪が乱れていたので、傍らの手紙を裂いて、それで髪を結んでやった。
 その後も「なんとかしてもう一度妻の生前の姿を見てみたい」と涙にむせびながら暮らしていた。とある夜この死んだ妻が夫の寝所へやってきた。妻がいうには「今一度、夫のあなたに会いたいという思いが深かったので、こうしてやってくることができた」ということであった。夜明けになって、妻は帰りがけに何かを落した様子であったが、何を探しているのか分からなかった。明るくなってから妻の去った跡をみると、それは妻の臨終の際に髪を結わえた手紙の切れ端とそっくりであった。残してあった手紙にあてがってみると、妻とともに火葬されたはずの手紙の切れ端であった。
 また、ある人の言った話では、「蜻蛉(かげろう)という虫は、生き物のなかでも特に夫婦の契りが深い。つがいの蜻蛉を別々の銭に貼り付けて市場にもっていき、別々の人に売ってしまう。その後その銭は転々と人手を渡るが、その日のうちに、必ずもとのように(つらぬき)(ぜに)として、同じ縄に貫かれて再び巡り合う」ということである。
 なおこの蜻蛉の話は意味がやや不分明であるが、「青蚨(せいふ)(かげろう)の母と子の血を取って別の銭に塗っておくと、一方の銭を使っても、もう一方の銭を慕って飛びかえってくる」という中国の「捜神(そうじん)記」の故事(子母(しぼ)(せん)という言葉の由来でもある)が少し変化して伝わったものであろう。
 さて、長明は「虫の夫婦の契りを書き記したところで、人間が見習えることはないが、人間の場合に置き換えて類推することはできる。私たち人間が(かげろうの夫婦の契りほど)深く志を持って、仏法に巡り合いたいと願えば、蜻蛉の夫婦と同じように願いはかなう。たとえ、業に引きづられて、思ってもみない道に入ったとしても、(仏は)折に触れて必ず現れなさって、お救いくださるに違いない。」と夫婦の思いの深さを信仰心に置き換えて結んでいる。
(原文)昔イモセノ(ちぎり)、シルシテ用事(ようじ)ナケレド、何ニツケテモ思フベシ。我等フカキ志ヲイタシテ、仏法ニ値遇(ちぐ)シ奉ラント願ハバ、ナジカハ、カゲロウノ契リニコトナラン。タトヒ(ごう)ニヒカレテ、思ハヌ道ニ入トモ、折々ニハ必ズアラハレテスクヒ給フベシ。(178、179頁)
「鴨長明全集」大曾根章介・久保田淳 編(平成12年貴重本刊行会)

(2012.11.10 記)