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イッセイエッセイ

737号 縮小と拡大のビジョン

2012年10月12日(金)

 誰にでも経験のあることだろうが、子供のころは夜空の星が肉眼でよく見え、細かい1つ1つの星の光に眼をこらして、星空の奥深く眺めることができた。しかし今の眼にはもう天の川でさえ朦朧としている。
 幼いその頃に思ったことであるが、この広大な暗闇に遠く美しく煌めく無数の星の不思議を見上げて、世の始まりと終わり、この地上の日常と遠い世界の果て、といった不可解かつ漠然とした観念の芽生えらしき気持を抱いたものである。そして、周りの人たちが何も気にせずに暮らしたりしていること、又そういう自分も明日の学校のことを思ったりしていること。これは一体どうしてなのだろうかと子供心に疑念が生まれたことを憶えている。
 最近、地上の諸々の話題からいささか離れてみたくなり、ハッブル「銀河の世界」(岩波文庫)、野本陽代「ハッブル望遠鏡宇宙の謎に挑む」(講談社現代新書2009年)、佐藤勝彦「宇宙論入門」(岩波新書2008年)、海部宣男・宮下暁彦写真「すばる望遠鏡の宇宙」(岩波新書2007年)といった宇宙の観測と研究、美しい宇宙の写真と発見の物語、宇宙盛衰の新理論、天文台や望遠鏡の開発・建設に関した啓発本をざっと通読した。その宇宙の色鮮やかな美しさを通り越した、多少おそろしく不気味な、まるで自分の眼の中を写した微細映像のような、多くの星々の写真を見て、かつて昔の感慨を抱くことになった。

 昨日は「ぎふ清流国体」のオープニング・プログラムや式典前演技を観客席から見学した。数百人、最後には2,000人をこえる出演者が1つの集団となりながら、それぞれ赤黄青などの色彩をもって全体と結びつき独自の動き展開するのを遠くから眺めると、それが最近読んだ上記の書物の映像と重なって、フィールドの動きがいよいよ小宇宙のような錯覚におちいった。
 会場を出て長良川に沿って車を走らせた。右手の金華山はきわめて急峻な峯であり、高くそびえる頂上にそれがお城であるとやっとわかるほどの小さい姿として目に入る。一方、左手の河の流れは間近かに見え、広い河原をゆっくりと蛇行している。城は遠く小さく距離もあるので、数百年昔の戦国そのままがそこに現存するように思われ、長良川の方も周りの近代的な景色の部分を故意に除外すれば、悠久の時間を感じさせる。道を行く車の動きだけがスピードをもった高速写真の中のそれのようであり、この景色の中で車で動く人間の歳月など、あっという間に過ぎてゆく錯覚に再びおちいる。
 時間や距離の縮小と拡大の錯覚によって、人間として自分が実感する時間を全く相対的に短いものにされてしまい、宇宙の本に書かれているように、人間や地球はもとより太陽系も銀河もそして宇宙そのものも、全くつかの間の存在であることを感じるのである。

 「惑星状星雲は、超新星爆発を起こすほどは大きくない中型の星が死にゆく姿だ。核融合反応が止まると、中心部は重力で小さく縮んで高温の白色矮星となるが、星の外側は反対に大きく膨らんでガスを周期的に放出し、惑星状星雲となる。重力エネルギーで熱く、まわりのガスを紫外線で光らせている中心の白色矮星だが、やがて暗くなり、見えなくなってゆく。五十億年後か六十億年後か、いずれわが太陽も、このような惑星状星雲の花を咲かせて散ってゆくだろう。」(上記の海部著54頁)

(2012.9.30 記)