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725号 表層と妄動(ジンメル著「日々の断想」からの断片)

2012年07月22日(日)

 哲学者で社会学者(生の哲学)であったゲオルグ・ジンメル(1858-1918年)の「日々の断想」を読む。
 そこに語られている人と世界についての166篇の考えは、ユダヤ的な逆説、反語、神秘主義的な言辞に満ちている。
 「人間の心というのは、役に立たぬ手段で行う最大の宇宙的な試みである(43章)」といったふうに。
 その中から、最近の気分に合うようなところを数か所取り出して以下に断片的な感想を記した。なお、ジンメルの社会学に関しては632号(2011年9月「糸瓜と社会」)を参照。

 
 「慰めという概念は、人々が通常これに意識的に与えているよりも遥かに広く深い意味を持っている。人間は慰めを求める存在である。慰めは救いとは違う。(中略)・・・慰めは苦悩を存続させながら、謂わば苦悩を苦悩において否定するという注目すべき体験である」(64篇)

 「慰め」は苦しみ(落胆)に対して、「励まし」は恐れ(逃避)に対して、働きかける心意的な力であり、それぞれ人間に対する双子の助言者である。
 なお、Hilty「眠れぬ夜のために」から以下の言葉。
 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある」(1月9日)。「まっさきに人間に慰めを求めないで、神にそれを求めなければならない」(6月16日)。「勇気をうしなわないことが、この世ではすべてである」(第2部 9月29日)。

 「私たちが義務を有するものについて権利を持たないというのは、道徳における本当の大きな悲劇である」(82篇)

 むしろ今日の問題はその逆であって、義務を担うつもりなしに権利をますます主張する現代の人たち。メディア、ネットなどのさまざまな情報に妄動し、義務感の不存在のために、空虚な中味のままに権利をもっていると考える。又それを新しい現象として持ち上げる風潮。

 「私たちが或る物を力の限り完全なものに作り上げると、それで、自分自身を出来るだけ完全なものに作り上げるという義務を免れたと考えることがよくある。即ち、物の問題を解くことによって私たち自身の問題を解くのを避ける」(102篇)

 世間で起きていることは(議論のレベルはちがうにしても)その種の心配ではなく、仕事よりも家族を優先し、自分も大事にしている生き方である。

 「判断するというのは容易な業ではないから、頭から否定的な判断を下すことになる。何といっても、この方が容易である。附言すると、私たちの批判癖そのものが、全体を個々の部分の合成に過ぎぬと考える現代通有の力学的な見方と関係がある。なぜなら、通常、この批判癖は、個々のものに向い、個々のものに対する非難が全体に対する判断になっているから」(106篇)

 ある問題を、余りにわかりやすく把えようとすれば、それだけでは総合的な判断をしそこねる落し穴に嵌る。例えば、近ごろ流行している次のようなこと、見える化して、生活に即して、対立軸化して批判するやり方の問題。

 「未来に対する力をもつ人間だけが、過去に対して本当の評価を下すのであろう(中略)・・・徒に幸福な時代を讃える人間は、主観的に規定された人で、彼には、過去との客観的に規定された関係が欠けている。この関係こそ現代を超えて行く力、否応なく未来に及ぶ力が含まれているのだ」(162篇)

 日本学術会議の前会長である広渡清吾教授が、「科学にエビデンス(証拠)とイマジネーション(想像力)の二つの要素が必要」、
 また「希望ある社会とはどのようなものかを想像する力、イマジネーションがいまの科学政策に欠けている。想像力は人文・社会科学の得意領域。自然科学といっしょになって考えていかなくてはならない」、
 と述べるとき、それはこの未来に力を及ぼすことに係わる話だ。(渥美好司 ザ・コラム「想像力こそ脱『灰色』のカギ」朝日新聞2012・7・15から)
 またこのコラムニストが、「一致したのは、リスクは原発固有のものではなく、これを運用する人間の側にあるということだった」、「科学者は灰色を脱するためにも萎縮しないでこれらの課題に取り組んでほしい」と主張するとき、ステレオタイプの思考から一応のがれていると思える。

  ジンメル「愛の断想・日々の断想」清水幾太郎訳(岩波文庫1980年初版、2012年10刷)

(2012.7.15 記)