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723号 十五才の冒険(和田英「富岡日記」)

2012年07月17日(火)

 文明開化と殖産興業の草創期、群馬県に開設された官営富岡製糸場の伝習工女として、同輩とともに郷土の選抜となって技術習得に赴いた女性、和田(えい)(1857-1929年)の回顧記。
 和田英と同行したほとんどの少女が、旧松代藩(長野県)では士族の令嬢であった。彼女たちは出来たばかりの明治国家に奉仕するために、家族の期待と各人も相当の覚悟と矜持をもって、新しい蒸気器械による生糸製造に一年余り従事する。その間、歴史の先達としてまた女性として、様々な苦労や試練を経るわけであるが、日記の中にはその様子が生き生きと描かれている。なお、われわれは日本史などで「女工哀史」や「野麦峠」のことをよく知っておりその連想が浮かぶかもしれない。しかし「富岡日記」の時代は、工業化が進んだ明治中期以降の女子労働者の厳しい境遇とはやや様相を異にしており、かなり恵まれた環境が感じられるのである(最近、製糸場は世界遺産に登録の動きがある)。
 筆者の和田英は富岡での製糸の各工程の研修を終えたあと、郷里の長野県に新しく創業することとなった県営製糸場(六工社)の技術教師に任ぜられそこで業績をあげる(その様子は本書の中に「富岡後記」として収録)。その後は陸軍軍人と結婚し、昭和四年に足尾銅山の古河鉱業の社宅で七十三歳で亡くなっている。本書に載っている和田英の写真は、眉と口元に彼女の強い意志をわれわれに感じさせる。
 「富岡日記」が世に出たいきさつは、筆者が五十歳のときに病気の母を慰めるため、往時をふりかえって書きはじめたことによってである、と解説されている。和田英自身も当時を回顧しながら、その頃はいかに世の中が開けていなかったかが今からみるとよくわかるので、「富岡日記」の言葉づかいはわざわざその頃(1873年・明治6年、筆者は数え17歳)の言葉のままに致している、と注記している。(67頁)
 富岡日記からいくつか箇所を、以下に引用あるいは要約する。読み進んでいるうち気になったところを断片的にメモしたに止まるものであり、全体との関連では必ずしも脈絡はない。

・「しかし引手のあると申すものは実に恐ろしいものと存じます」(40頁)
 製糸場での健康維持のため、夕涼みの盆踊が奨励された。評判のよかった信州(長野県)の踊りが、あとに来た長州(山口県)の女性たちの踊りの勢力に圧迫されるようになったことに対する筆者の感想。
・「いよいよ退場の時、出口のところへ後から駆出しておいでになりまして、桃の小枝を持っておいでになりまして、私の髪へ()して下さいまして、『これは白桃の枝だから、これを挿して居れば暑気に当らぬ呪禁(まじない)だから、道中挿して行って下さい』と涙ながらに申されまして、後も見ずにお顔にお袖を当てて御自分のお部屋の方へ駆けて行かれました。私もその時の悲しさは今でも忘れません。そのやさしき親切なる御心立を折々思い出して懐しく思います。春ごとに白桃の花を見ますと、何となくその人にお目に懸かるように思われまして、白桃を愛して居ます」(66頁)
 この工女は今井おけいさんと言い、静岡県の人で旧旗本の娘、筆者の隣席で糸揚げ(生糸を大枠に移す作業のこと)の指導をしてくれた女性である(24頁、56頁~57頁)
・富岡町の製糸場(「御場所」と敬ってみなが言っていた)で一年余りの修行をし、14人がそろって信州松代に帰国する際、東京見物などの入費として金一百円をもって国元から迎えに来るのだが、(なお彼女たちの一年間の生産量は、上役の言葉によると九百円と見込んでいたようだ)、帰国土産の経費がかさんでしまい、高崎見物ですませている。若い女性たちの将来にとって、首都を見学しなかったことは、残念なことであった(67頁~68頁)
 この和田英のことは、本著の解説者森まゆみが、NHKラジオの「女のきっぷ」というシリーズにとり挙げている女性のうちの一人である。以前に述べた相馬黒光(690号「江戸を知る女性」)、林きむ子(舞踏家)、神谷美恵子などもこのシリーズで放送されている。
 和田英「富岡日記」森まゆみ解説(みすず書房2011年)

(2012.7.8 記)