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イッセイエッセイ

714号 世界史は学べるか

2012年05月16日(水)

 マクニールの世界史は最近よく日本で読まれているそうである。高校でじゅうぶん勉強しなかった大学生などに人気があるとどこかに書いてあった。以下ところどころの抜すい及び若干の感想を記す。

第一部 ユーラシア大文明の誕生とその成立(BC500年まで)
(はじまり)
「人間の行動は、DNAのすばらしい機構によって遺伝された個人の生物学的な資質よりも、人が社会の中で学んだものの力によってはるかにに律せられるようになった。文化的進化が生物学的進化の先に立ったとき、本来の厳密な意味での歴史がはじまったのである。」(20頁)
 紀元前3千年前、古代シュメール人で考え出された工夫として、その後永く文明世界の政治の基礎的なものになったのは、「法典の公布、官僚制による役職設定、公式の郵便事業」などであり、みなこの古代メソポタミアに起源を有する。(36頁)

(文明のひろがり BC1700年まで)
 「ことはそのように単純でないにもかかわらず、波紋の比喩は役に立つ。さまざまな風土の範囲内で、中東式の新石器農耕は間断なく新地方にひろがった。」(38頁)
 「旧世界におけるこれ以後の歴史は、農耕民の生活によって可能となった人間の数の優越と、遊牧民文化の必要から生まれた政治・軍事組織の優越との間のかかわりを軸に展開した。」(41頁)
 「メソポタミアで一千年あるいはそれ以上かかったことが、エジプトではその半分以下の時間で実現された。これはエジプト人がシュメール人の経験を利用できるという強みをもっていたからである。」(46頁)

 「メソポタミアで苦労して工夫されながらも不完全の域を脱しなかった中央主権的な帝国行政維持の工夫は、エジプトでは必要なかった。神聖な支配者は、川に沿ってところどころに駐在する忠実勤勉な少数の部下がいれば、難なく国全体を支配することができたのである。」(47頁)
 「メソポタミアの政治権力の中心が川の上流に移動する傾向があったのは、土壌の塩分が増したこと、軍事衝突において上流は水の供給を止めることにおいて有利な立場にあったから」(55頁)

 「フィン、エストニア、マジャール、バスクなどを除いては、ヨーロッパの現代の住民はすべて、この青銅器時代の征服者が、ユーラシアの西方のステップ地帯からもたらした古代語から由来したことばを話している。」(61頁)

(中東のコスモポリタニズム BC1700-BC500)
 「われわれは馬に乗るということをあまりにあたりまえのこととしているので、それが最も自然な馬の使用法であるような気がしている。それでは乗馬が習慣化するまでに、どうしてあのような長年月がかかったのだろうか。」(80頁)

 「ローマの軍隊も近代ヨーロッパの軍隊も、もとは古代アッシリア人とペルシア人が作りあげた行政上の原理をもとにして出来たものである。」(85頁)

 鉄とアルファベットの影響(紀元前1200~1300年ころ)により、あまりに誇大に言いすぎてはならないが、人々の多くの部分が文明生活に参加できることになり、文明的な生活スタイルができあがった。(88頁)

 この時代の中東文化は、コスモポリタン化する時代であり、また一神教の出現を迎えた。「実際のところ人間の世界観に永続的な変化を起させた真に重要な運動は、現在よりよい過去(これは虚構である場合もときどきあったが)への復帰と、新しい啓示の力への訴えかけのふたつを結合して持っている。」(89頁)

 ヘブライ人だけが、倫理的な一神教をはっきり古代オリエント文明の中に永続的に打ち出した。ユダヤ人の宗教は、外見上の生活や習慣はまわりの民族に合わせていたが、信仰は固く守りつづけたので、「宗教が人間文化の他の側面から切り離された。」(95頁~96頁)

(インド文明の形成 BC500年まで)
 紀元前三千年紀の間にモンスーン・アジアで栽培されるようになった米の収穫はひじょうに大きく、多くの労働量と技量を要し、稠密な人口を維持できた。(65頁) 米作によってガンジス川流域は生産性が著しく高まり、「紀元前800年ごろまでに、文明化した複合社会に向かっての新しい進歩がおこる前提条件が成立した。」(103頁)

 インドにおけるたいていの帝国が脆い性格をそなえていたのは、「すべてのふつうのカースト成員にとっては、統治者とか役人とか軍人とか徴税人とかは、たんなるやっかいな外来者にすぎず、必要な範囲内で言うことをきき、可能な限り無視しておけばいい、と思われた」という事実に大部分の原因がある。(107頁)

(ギリシア文明の形成 BC500年まで)
 「イオニアのギリシア人は、都市国家またはポリスを形成することにより、ひとつの原型をつくったのであり、この原型から、政治組織を領土で限られた主権地域すなわち国家に編成しようとするヨーロッパ世界の強力な傾向が生まれたからである。領土権を他のあらゆる形態の人間の組織に優先させるというやり方が、自然的なものでも必然的なものでもないことは、インドのカースト原理を見ればわかるだろう。だから、西欧人の宗教が、ファラオから逃げたヘブライ人のおかげでできたものならば、同様に西欧人の政治は、ドーリス人から逃げたギリシア人のおかげをおうむっていると言えるのである。」(118頁)

第二部 諸文明間の平衡状態(BC500-AD1500年)
(ギリシア文明の開花 BC500-336年)

・強力な軍隊も異国で戦うことには困難をともなう
 クセルクセス王はサラミス湾での敗北のあと、「彼自身もその軍隊の大部分もペルシアに戻らざるを得ないことを悟った。ギリシアでは、ひと冬の間、全軍を維持するに足る糧食を手に入れることが絶対に不可能だったからである。」(159頁)

・アテナイにおいては、重装歩兵制度から海軍化への軍事上の進展によって、海軍にかり出される下層市民の参政権が強まり、昔からの自営農民(重装歩兵)はだんだん政界の片すみに押しやられた。下層民の国政参政権の拡大は、はじめは上層の政治家たちが自分の支持層を開拓しようとした結果にすぎなかった。しかし、「軍艦に乗って櫂を漕ぐのが、夏期の恒例の仕事となったとき、貧民階層が帯びたこの軍務は、彼らに国政壇上で発言する権利を与えた。このときはじめて、民主政体は確固たるものとなったのである。」(160頁)

・自由な同盟が中心都市の帝国化に変ってゆく
 「最初はペルシアに対抗するための諸都市の自由な同盟体だったものが、やがてアテナイ帝国というべきものに変貌したのである。」(161頁)

・農業中心の単純素朴な社会が、社会階層の分化によって党派性を帯びることとなり、内部の結束力を失う
 「もっと深刻な変化はポリスに対する忠誠心の衰えであった。」(162頁)

(ヘレニズム文明の伸展 BC500-AD200)
 文明世界(ギリシア文明)のすぐ外側の周辺国家(マケドニア)が、地理的立場を利用し、軍事力を増強し、文明世界の効果的なやり方をとり入れて組織化したときは、もとの文明の中心地の力が劣った競争相手を征服する能力を備えるという例は、「ほかにもしばしば見られる。」(179頁)

 ギリシア人は個々の都市に忠誠心をもち、より大きな政治的なものへの結びつきを考えることができなかった。一方ローマに関しては、イタリアの原住諸族は、ごくぼんやりと部族や地域に組織されているにすぎず、ローマがこれら諸族に対して、自己の軍事的、政治的指導権を確立しようとしたとき、地方主権を守ろうとする執拗な動きは全然みられなかった。」(188頁)

 ローマがしばしばちょっとした口実で戦争をはじめたのは、「海外の危険よりは内政の困難のためだったのである」(190頁)

 「ローマ法の能率性と柔軟性」は、法廷、契約、所有権、主権者立法など「のちさまざまな形態の地方的慣習法がヨーロッパの多くの地方でその有効性を主張したが、ローマ法が忘れ去られることがなく、必要が生ずれば、その原理は復活することができ、また実際に復活された。これは、後代になって商業の再振興を大いに助けたのであり、ローマ帝国の現代への永続的遺産のひとつとなったのである。」(195頁)

(アジア BC500-AD200年)
 秦の始皇帝は「容赦なく抜本的な行政改革を断行した。全国は郡と県に分割され、その境界は現代までつづいている。文字の書体も統一し、これも直ちに普及したので以前書かれた書物は多かれ少なかれ読みにくくなった。」(202頁)

 孔子の教えは漢の公の政治理念として採用された。「競争相手の諸教義は沈滞したが、それは思想問題として論破されたからではなく、むしろ公の不承認の結果だった。だがそのため、やがて中国帝国の教育ある階層は著しい画一性を呈するようになった」(204頁)

 紀元前より少し前シルクロードの時代に、中央アジアが比較的安定化したのは、「騎馬隊の戦術に重要な進歩があったからである」。
 新しい大型の馬が特別栽培の「むらさきうまごやし」によって生産され、「重装騎兵は草原地域の軽騎兵と対等に矢を交えることができ、敵の矢が尽きたとき彼らを戦場から追って必死の退却を余儀なくさせるようになった」、「いずれの側も相手の勢力圏では勝てない」いわば手づまりの状態が生じたのである。(205頁)

(one day)
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(蛮族の侵入と文明世界の反応AD200-600年)第二部の続き12章
 「ユーラシア大陸の草原地帯にいた遊牧諸民族は、たとえてみれば、しっかり蓋を締めていない壜の中に浮遊する無数の微粒子のようなものだった。どこか一カ所に力が加わると、たちどころに動きが全体に及ぶ。」(233頁)

・民族の活力が失われるのに、わずか数世代しかかからない
 「蛮族が建てた国家の基本的な欠陥はどこでも同じだった。支配者たちはとうてい両立することのできないふたつのことを同時に行おうとしたのである」、「一方では彼らの略奪生活の過去からつづいた伝統的な生活様式や風習を保っていこうとし、他方では、彼らの新しい臣下から金品を搾取したり奉仕を強要したりして、文明生活の贅沢と歓楽をたっぷり享受したいと願った」、「だが征服者が文明化すればするほど、以前の部族的、戦士的な伝統は薄れていった。安楽な生活と悪徳が、一世代から二世代の間に、蛮族特有の活力と力強い好戦性を徐々に蝕んでしまうのであった。」(237頁)

(イスラムの勃興)
・戦闘における実際戦力と精神の問題について
 「アラブ軍は数において優れていたわけでもなく、特別に装備がよいというわけでもなかった。だが、神が自分たちと共に(いま)すという信念、戦死は天国における至福の生を保証するという確信、さらにウマル(拙注―634-644年まで二代目カリフ)の適切な指導、それだけでアラブ軍を無敵の勝者とするに充分だった。」(255頁)

・曖昧な態度は不可能、論理的に中間点が存在しない、受容か拒否。
 「イスラム教は、その先駆であるユダヤ教やキリスト教の持つ教義上の不寛容性を受け継ぎ、一層徹底させたのである。」(260頁)

(中国、インド、ヨーロッパ 600-1000年)
 「イスラム教が急速にひとつの一貫した、そして法的に規制された生活の様式となったので、近隣の諸国は、イスラム教を受け入れるか、全面的に拒絶するのかふたつにひとつを選ばなければならなかった。」、この教義上しっかりした宗教が、文明生活の中心を占めるという、過去の時代にはみられなかった事情が生じたため、「文化的境界線を越えたこの相互の刺激は、否定的な意味で重要である。つまり、イスラム教に抵抗するために、ヒンズー教世界とキリスト教世界は、それぞれ自己のはっきりした特性を今まで以上に強めることになったのである。」(265頁)

・日本の文化受容における独自性について
 「日本は中国から距離的に離れていたため、中国の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険をあまり感じなかった。そこで日本は、600年から1000年までの間に、仏教、儒教をはじめ彼らが輸入しうる中国のあらゆる要素を歓迎して受け入れた。この時示された、外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性はそれ以後の時代にも何度かくりかえされ、その度に日本の歴史は急激な転換を見せたが、これはほかには見られない、日本史だけの特徴である。」(267頁)朝鮮人は中国に対抗して、独自性を保つため、仏教を国教として定め、中国では禁止した後も、ことさら仏教に固執した。
 以下、私見的なこと―
 日本は接触していた文明の中心地(中国)との距離感、島国などの条件によって、中国の文化圏に完全にのみ込まれてしまう危険を、朝鮮やウイグル人のようには強く感じなかった。このように、日本は歴史的に言語・宗教・制度などの固有性を保って来たのであるが、それは日本人の民族的気質によるというよりも、地政学からくる意味が大きいであろう。外国の文化にことさら対抗性を示さずとも、個性を伸ばせる可能性が存在し、独自の国民的習性も生まれたと解すべきであろう。奈良、平安時代はもとより、明治維新もしかり。一方、戦後以降の無原則性は、グローバル化により地理的な隔離が意味をなさなくなったので、現在に至ってこれまでにない新たな問題を発生させていると理解すべきか。

・唐王朝における初期の仏教公認とその後の大きな弾圧について
 「仏教寺院が信者からの寄進によって大量に手に入れた土地を没収したいという皇帝の欲望が、弾圧の直接の動機(・・・・・)であったろう。しかし真の原因(・・・・)は、儒者たちの仏教に対する不信感、いや敵意である。この異国の信仰は、儒者たちが正しい生の基本として説く義務の遵守や責務の遂行を、無視するように教えるものだったからである。九世紀の弾圧の後、中国の仏教は比較的低い身分の人々の間にのみ生きつづけた。」(傍点小生 270頁)

 「インド特有のカースト制度のため、ヒンズー教徒はイスラム教徒を武力で追い返すことはできなかった。このような社会構造のもとでは、政治的、軍事的な力はひどく弱いものであることは避けられないからである。」(272頁)インドのヒンズー教徒は平和的な反応しかできず、ヒンズーの伝統をなんとか守ることだけであった。

 「バルカン内陸部へのスラブ人の浸透の結果、ユスティアヌス(565年没)の時代以後、ラテン語はコンスタンチノープルの路上ではまったく聞かれなくなった。それよりずっと前に、西方ではギリシア語がすっかり忘れられてしまい、ラテン語の知識さえ、わずかばかりの修道院や寺院付属の学校で保たれているにすぎなかった。一般語は急速に古典語の形から離れて発達しつつあった。」(279頁)
 古典古代の言語の衰退の歴史的描写である。

 「西ヨーロッパとその隣人たちの立場が根本的に逆転したのは、だいたい1000年ごろのことである。そのあらわれは、イタリアの水軍が成長して地中海のイスラム教徒と対等に戦えるようになったこと、またロシア(989年)、ハンガリー(1000年)、そしてデンマーク、スウェーデン、ノルウェーのスカンディナヴィア三王国(831年から1000年まで)がキリスト教に改宗したことである。改宗はいずれの場合も、野心的な王が現れてキリスト教を歓迎したことからおこった。彼らはキリスト教が、規律がなくて手に負えない家来たち矯正してくれ、依然として野蛮な人民の中に、読み書きだとか、ちゃんとした信仰などという、文明生活になくてはならぬ付属物をもち込んでくれることを期待したのである。」(280頁)

 「騎士(8世紀フランス人による(あぶみ)の導入。また(よろい)や槍。)、重い大型(すき)(ゲルマン人の耕作者が発明)、それに攻撃的とまでは言わぬにしろ独立の気概に燃えた商業人口(自衛精神をもつ中世都市)、この三つが、西欧に、まったく新しいそして同時代の他の文明とははっきり区別される制度と技術を与えたのである。」(かっこ書は付加 283頁)
(2012.5.1記)
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(トルコとモンゴルの征服による衝撃 AD1000-1500年)
 「いかなるイスラム国家も、これほど非凡で効果的な国内組織を確立したものはなく、世界史上でオスマン帝国が以後演じることになるような役割を演じたものもなかった。」(291頁)
 どういう事かと言えば、オスマン国家は、有能な常備軍であるイエニチェリ(新しき部隊の意味。指揮官をふくめ奴隷に分類、のちにバルカン地方から徴集)と、忠誠心に富むトルコの封建軍(征服地のイスラム教徒の地主や戦士)の両方を自由に使ったのである。
 時代がはるか下って、オスマン帝国が第一次大戦後に崩壊(1923年)について。
 「オスマン帝国と立憲政」(藤波伸嘉著)についての細谷雄一教授の書評(きょう5月13日の読売新聞)が出ている。これによると帝国が多民族・多宗教国家を立憲的に統合しようとした試みが失敗したのは、「帝国主義的な西欧列強本位」の外在的要因によるものであり、それがなければトルコでも、イスラムでもない近代国家の統合が可能であったかもしれないと論じているようだ。

 「かつてはイスラム教は都会の宗教であった。事実、『律法』の定める祭儀の規定のうちには、人里離れた田舎に住んでいたのでは実行できないものもあった。だが、『聖者』たちの崇拝、彼らの墓へのお参り、そして彼らが法悦の境に達する熱狂派の行を勤めるのを見守ることなどが、イスラム共同体の一員となる第一歩となったとき、素朴な田舎者も、すれっからしの都会人と信仰を共にすることができるようになった。別の言葉で言えば、イスラム教はヒンズー教に似た外見を呈しはじめ、それまでずっとヒンズー教の特徴だった祭儀の細かな階梯や多様性に似た何かが、イスラム教にしみ込んだのである。」(293頁)

  ここでいったん「世界史」は小休止。

「世界史」 ウイリアム・マクニール著1967年(増田義郎/佐々木昭夫訳 中央公論新社2001年)から

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 カール・ヒルティは「歴史における主観的要素について」(1904年)において、「世界史」について、一人の歴史家が著述したり学生が「世界史」一般といったものを学ぶことが果たして役立つかどうかについて疑問を呈している(著作集第十一巻)。
 「われわれはつぎのことを疑うものである。すなわち、全人類の歴史を書くというようなひとつの仕事を、それに必要な準備と史料の収集をして成しとげるということは死すべき人間には不可能である。ましてこのように膨大な史料をじゅうぶんに整理し、正しく総括して再現することは全然不可能であるということである」

 「真の歴史は、つねに個別な時代ないし個別の生活圏にとどまるであろう。そして範囲が狭くなるほど、ますますそれが有用なものであることがあきらかになるであろう。」

 「たとえ小国であっても、一国・一民族の全歴史を書くことはもともと不可能な業である」

 「絶えず利益が得られるような、本来啓発的な歴史叙述は、その規模からいって、一定の出来事やごく限られた期間の短い説話であって、往々にして非常に簡潔に書かれている」

 このようにまで極論できるかどうかは別にして、通史としての「世界史」を、一読者として安直に一読しようとすることの意味については再考を要することであろう。「世界史」の高校教科書を字面だけ追ってゆくのと、さして変わらない問題を生むであろう。

 ところでこのマクニールの「世界史」であるが、著者みずから次のように述べている。
 「世界史たるものに関しては、統一的な基準はまだできあがっていない。何を削って何に焦点をあわせるかは、依然として議論の的であり、異論の絶えないところである。」
 そして意見の不一致があるからこそ、「本書のように手短かに人類の過去を説明することには、意義があるように思われる」という。
 「本書をまとめる基本的な考え方は簡単である。いついかなる時代であっても、世界の諸文化間の均衡は、人間が他にぬきんでて魅力的で強力な文明を作りあげるのに成功したとき、その文明の中心から発する力によって攪乱(かくらん)される傾向がある、ということだ。・・・(中略)時代が変わるにつれて、そのような世界に対する攪乱の焦点は変動した。したがって、世界史の各時代を見るには、まず最初にそうした攪乱が起った中心、またいくつかの中心について研究し、ついで世界の他の民族が、文化活動の第一次的中心で起った革新について(しばしば二番せんじ三番せんじで)学びとり経験したものに、どう反応ないしは反発したかを考察すればよいことになる。
 以上の見方に立つと、異った文明間の地理的背景や接触の経路が、中心的な重要性をもつ。考古学、技術史、美術史などは、今日まで残った文書記録ではときにわからない古代の諸関係に、重要な暗示を与えてくれる」(以上、「世界史」の序文から)

「訳者あとがき」によると、著者は現代アメリカでもっとも尊敬されている歴史学界の長老のひとりであり、学風も「どんな側面にも関心を示して、包容力のある視野の中に、全体的な歴史をまとめあげる力をもっている」と説明がある。また歴史家自身、別の著作において「私は皮肉でもなんでもなく、この本が、くりかえしふんだんに誤解されることを望むものである」と述べていることを引用している。
 したがって、「世界史」も様々な考え方があるのだから、決定的な自説の主張をしたという訳ではないと断っていることになる。              

(2012.5.12 記)