西川一誠後援会サイト

イッセイエッセイ詳細

イッセイエッセイ

713号 政治家と将軍たち

2012年05月11日(金)

 チャーチルの「第二次世界大戦回顧録」には、政治家でありかつ戦争時の最高責任者であった立場からのチャーチルの卓見が随所に展開されている。
 ヒットラーと彼の将軍たちとの関係については、双方が一体として好戦的であったと見がちであるが、真実は奇なりである。それは日本における政治と軍部との関係と様相をことにしている。ナチスによる1936年のラインライト再占領においても、1938年いわゆるチェンバレンの宥和主義下のミュンヘン協定によるチェコスロバキアの解体においても、ドイツの将軍たちの方は当時の英仏との勢力判断において悲観的な見方をしており、絶えず慎重であり暴走しようとはしなかった。しかし、ヒットラーの強がりと直観的な指導能力によって、ナチスの軍事行動が幸運にもまんまと成功してしまった。その結果、愛国的なドイツの将軍たちも総統に服従せざるを得なくなり、陰謀と裏切りは失せて彼にひれ伏した。チャーチルはこのように分析し記述している。(159頁、230頁)
 そのほか本書から前後の関係は省略して断片的な引用を以下に。

  「容易な問題はひとりでに解決されることが多い」(254頁)
 「平和主義者は一般の恐怖をもてあそぼうとした」(274頁)
 「助言者を相手にするよりは、むしろ組織体の長を相手にするほうが好ましかった」(282頁)
 「人間の心というものは、固定観念の中で育てられるものであるから、異常な天才に指導されない限り、その固定観念を乗り越えることができないのだ」(315頁)
   W・S・チャーチル著「第二次世界大戦 第1巻」(佐藤亮一訳 2002年河出文庫)

(2012.5.2記)


 次に第二巻は、イギリスの挙国連立内閣、フランスの敗北、ダンケルクからの救出、イギリス本土への空襲、北アフリカ・バルカン・ロシアへの独軍侵入など、1940年前半から1941年前半までの間の対独・対伊の戦争情況が描かれている。以下に要約あるいは「引用」と(若干のコメント)。

 戦争の最中に連立内閣を組閣することは平時より容易である。
 「義務感が万人を支配し、個人の要求はひかえ目になる」、「私が起用した人々の態度は一様に、まるで指定の場所へなんの疑いもなくおもむく戦場の兵士のようになった」(以上15頁)

 私は長年にわたってインド問題、外交政策、戦争準備の不足などをめぐって、保守党員のなかでも反対論の真っ先に立っていた。私を首相に迎えることは、彼らにとってはきわめて困難なことだった。このことは、多くの尊敬すべき党員に苦痛を与えた(16頁)

 ミュンヘン会議の結果の責任、これまでの戦争準備の欠陥について、罪人さがしや追放の圧力などはあったが、私はこうした動きは挙国一致を破壊するものとして応じなかった。
 「公的な責任は、時の政府にあった。しかし、道徳的責任はもっと広い範囲にわたっていた。」、
 「過去を拭い去る資格を、私以上にもつものはだれ一人いなかった」、
 「私は『もし現在が過去を裁判するならば、未来が失われるだろう』といった」(以上17頁)

 戦争内閣を組織し、責任はすべて首相をふくめた五人の戦争内閣の閣僚が負うことになった。
 「もし戦争に勝たなければ、タワー・ヒルの刑場で首をちょん切られる羽目に陥るのはこの五人だけだった」、「これによって、その後たちまちわれわれを襲った苦しい日々にさいして、多くの人々が大きな懸念から救われることになった」(以上20頁)

 「国家の危機にさいして、どういう命令をくだせばよいかがわかっているときには、権力は神のたまものである。いかなる活動圏においても、第一の地位と第二、第三、第四の地位は比べものにならない。」(20頁)
 「第二、第三の地位にあるものが重要な計画や政策を立てねばならないようでは仕方がない。そういう地位の人は、政策の価値だけでなく、上司の考えを考慮しなければならない。勧告すべきことがらだけでなく、自分の地位においてどういう勧告が適切であるかということまで考慮しなければならない」(20頁)

 「戦争指導機構の基本的な変更は、外見よりも実質的なものである。『憲法は短く、あいまいにしておくべきだ』とナポレオンはいった。既存の組織には手をつけなかった。官吏の人事もいじらなかった」(21頁)

 首相が指示する事項はすべて文書か、直後に文書で確認すべきものとした。決定した国防問題については、みだりに自分の名前が使用されないよう、文書に記録されないものは首相は責任をとらないこととした(これは戦前の日本における政治と軍部との関係とはずいぶん違う。)
 「私は、公務の処理は文書(・・)によっておこなうのがよいという強い信念をもっている」(23頁)

 「全面戦争においては、軍事問題と非軍事問題をはっきり区別するにはまず不可能である」(24頁)

 「信頼が深まるにつれて、戦争内閣は作戦上の問題に介入することはだんだん少くした。ただし、その問題は注意深く見守り、じゅうぶんな知識を得ていた。」(25頁)

 「戦争行政の能率は、主として承認された最高権威の決定が、実際に厳格に忠実に、また規則正しくまもられるかどうかにかかっている」(27頁)

 独軍の侵入に対して効力を発揮するはずとオランダが自慢していた破堤による「洪水戦術」はすべてばかげていた。「近代的な条件のもとでは小国に対する大国の威力は圧倒的だった」(35頁)



 ドイツ軍の進撃後、たった3週間でフランス陸軍は壊滅状態になった。チャーチル自身は、前大戦以後のドイツの重戦車両の速度の向上に十分理解が及ばなかった。フランスに機動的な予備軍のそなえがなかったことにチャーチルは唖然とした。(40頁-42頁)。
 このように1940年5月9日、独仏国は境を破られたのだが、チャーチルは5月16日にはロンドンからパリに直接出向いて、フランスのレイノー首相、ダラディエ国防相、ガムラン将軍など、指導者と直接に現場での情勢を分析している。つまり軍人的行動をしている。

 以下また引用など。
 ダンケルクの脱出の際に、ドイツとの英空軍の空中戦の状況は、海岸の自軍には見えなかったので、地上のイギリス兵隊は空軍に対して怒りや不満をぶちまけた。
 「私は国会で、極力真相を広めることに努めた」(75頁)(戦時広報の発想である)

 「私は、勝つためにはただ戦争を続けてさえすればよいのだ、とかたく信じていた。連合国の一方が打ち負かされても、他方は戦闘を放棄してはならなかった。イギリス政府は、たとえなんらかの災禍を受けてイギリス本土が荒廃することになっても、新世界から戦うつもりであった」(82頁)(フランス政府の指導者とは異なり、うしろの出口の覚悟を持っていた)

 「ロンドンのある軍のクラブで、ある会員がしょげていると、そこの小使が『旦那、いよいよ試合は決勝戦ですね。しかも、ホームグラウンドでやるんですよ』といったという」(164頁)(イギリスの一般大衆は、本土決戦に立ち向かうことに少しも躊躇していなかった様子を述べたもの。同時に、貴族階層の指導者と庶民との間の役割関係がかいま見られる)

 「敵が恐怖戦術を用いてくれば、われわれは手段を選ばず対抗する覚悟であった。私は『各人がそれぞれ一人を道連れにできる』という標語を使うつもりであった」(171頁)(日本の竹槍精神と類似したところがある、この点だけを見れば)

 「そこの主人も妻もコックもウエイトレスも泣いていた。彼らの住む家があるのだろうか?どこで暮らしを立てるのか?
 ここに職権のありがたさがある。私はすぐに決心した。私は列車で戻る途中、蔵相キングスレー・ウッドあての書簡を口述した。これは敵の爆撃による被害はすべて、国家の負担として直ちに補償の全額を支払うのを原則とするものである。これによって負担は住居や仕事場に損害をうけた人たちだけにかかるのではなく、国民の肩の上に公平にかかるのである。キングスレー・ウッドは、この補償義務が明確な性格をもたない点で少し困っていた。しかし、私はこの案を強く主張したので、この保険制度が二週間で成案を得た。これは後になってわれわれが時局に対処するために重要な役目を果たした」(217頁)(こうした心境はよくわかる。現在の災害復旧支援の最初の例か)

 「もしわが都市のどこかが攻撃されなければならないなら、私はロンドンが矢おもてに立ったのは、むしろよかったと思う。ロンドンはたとえるならば、何か巨大な有史以前の動物のようなものであり、あちこち傷をうけてずたずたにされ、血を流す恐ろしい傷を受けてもなおそれに耐えて生きながらえ、うごき回るというのに似ていた」(227頁)(思い切った記述である。関東大震災、あるいはこれからの東京直下型地震との関連でどう考えるべきか)

 「このようないろいろな不安を振り返ってみるとき、私はある老人が死の床で語った物語を思いだす  彼は一生の間にいろいろ不安を抱いていたが、ついにそれがほとんど起こらずにすんだというのだった」(256頁)(1940年以降、結局ドイツ軍の海上からのイギリス侵入は実行できなかったこと等をさす。)

 「大戦争の場合、軍事を政治問題から切り離すことは不可能である。頂点において二つは一つになるのである」(272頁)

 「レーダー、デーニッツ両提督はヒットラー総統に対して、Uボートの活動範囲をもっと自由にし、・・・(中略)航海する米国船に対しても行動を取ることを認めるように嘆願した。しかしヒットラーは動かなかった。彼は常にアメリカ合衆国との戦争の結果を恐れていたので、ドイツ軍は挑発的行動に出ることを避けるべきだと主張した」(289頁)(日本との違い。日独はそれぞれ別のところで失敗している。)

 「できること以上のことはやらぬとか、やるからには確実にものにできることをやるということは、常によくいわれることである。しかしこの原則は、人生や戦争における他の原則同様に、例外をもっているのだ」(347頁)(イラクの反乱制圧とシリアの占領作戦が英国劣勢ながら成功したことについてのチャーチルの見解)

 「読者は、決して私は独裁権を振るわず、常に政界と専門筋の意見の一致に従っていたことを忘れてはならない」(353頁)(軍人の人事についてのことである)

(2012.5.5第2巻読了 記)