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イッセイエッセイ

709号 「歴史における幸不幸について」

2012年04月18日(水)

 ある時代のことやある出来事について、そのことが幸いであったとか不幸であったとかいうような見方で、歴史的な判断を下すようになったのは、ようやく近代にみられる特徴らしい。
 これはヤーコプ・ブルクハルトの「世界史的考察」(2009年ちくま学芸文庫、新井靖一訳)第6章<世界史における幸と不幸>の中に書かれており、ギリシア人がペルシア人に打ち勝ったのは幸いであった、というような幾つかの例が引かれている(433頁)。
 例えばわれわれが、軍部が暴走して起った満州事変は日本にとって極めて不幸であった、というような常套的な表現も同類のものと言えよう。
 しかしながら、ブルクハルトは「こうした判断は、真の歴史的認識の不倶戴天の敵である」とはっきり述べる(434頁)。
 その種の考え方は、啓蒙思想の歴史家たちが作り出した一人よがりの判断が蓄積した結果であり、時代の世論を反映しジャーナリズムによってやたらと使われたものであると言う。
 歴史上のことがらが誰かにとって幸であるか不幸であるか、といった判断をしてしまう原因がどこから来るのか、について以下のように言う。
 一つは、歴史家と読者の性急・・さから来るもの。興味深く見えるものに味方してこれを幸いとし、退屈なものは敵に回して不幸とする。二つには、文化・・の観点からする判断であり、近代的な意味での快適さや道義心あるいは安全性・・・などから進歩の程度をみて、判断しようとするもの。三つには、趣味一般・・・・に基づいた判断であり、芸術が盛んであったとか通商が拡大したとかの観点からみる。
 しかし、これらのたとえば幸福だと考える判断がいかに偏っているか、また当時の生活全体のいかに僅かの部分でしかなかったかは、容易に立証できると言う。
 さらに加えて、政治的共感・・・・・に基づく判断があると言う。例えば、善良な皇帝の時代を最も幸福な時代だとし(ギボンのローマ帝国衰亡史)、共和制の時代を幸福とするもの、疾風怒濤の時代を幸福とするものなどである。さらに偉大さ・・・の観点(プルタルコスなど)からする判断もきわめて現今(著者の19世紀後半のこと-拙注)好まれている。そして、最後にくるのが、これらすべての判断からにじみ出してくるもの、その大もとの判断である利己主義・・・・に基づく判断である。すなわち、自分たちのために都合のよい類似した時代を、幸福な時代とするのである。
 「われわれはそもそも『幸福』という表現を諸民族の生活から捨て去って、別な表現に置きかえるという試みをする必要があろう。」と言う(445頁)。
 「『幸福』とは、一般によく使われることによってすり減ってしまい、神聖さを失ってしまった言葉である。もしこの地上全体の人類で普通選挙をやり、この言葉の意義について決定を下すことになるとすれば、どういうことになるであろうか?」(445頁)。
 このあたりの著者の論調はやや否定的になっている。
 「何よりも言えることは、幸福とは健康であるといった積極的な感情であるとする観念からしてすでに間違っており、幸福とは苦痛のないことに過ぎず、積極的感情の場合でも、せいぜいのところ自分は成長しているのだというかすかな感情と結びついたものぐらいである。」(446頁)

(2012.3.31記)



 では、世界史における計りしれぬ破壊や殺戮、滅亡、絶望の総体を、善や悪の見地からどうみたらよいのか。こうした悲嘆に対し、どのような歴史的知識を対置して慰めを見出せるのであろうか。
 ブルクハルトは、世界史における厳しい現実と向かい合いながら、この幸と不幸という概念について、「考察を中止しなければならない」、「しだいにその意味を失ってゆく」と言っている(461頁)。
 かなり悲観的な見解とも見えるが、幸不幸というものを忘れて、「人類の精神の存続の問題」を認識し、追及すべきであると言うのである(463頁)。
 ブルクハルトは自分の歴史学の方法論について、「歴史哲学」とは学問上において前提をほとんど異にすると主張している。
 考察の序論(13頁)において、歴史学とは事柄を同格に論じることであるから非哲学であり、哲学とはすなわちある概念を他概念に従属化させることであり非歴史的である、と述べている。
 そして、ヘーゲル(1770-1831年)の「歴史哲学」を引き、「歴史哲学」の根本思想―精神が己れ自身の意味するものをどうように意識するにいたるかを叙述することが世界史という考え―に疑問を投げかける。理性の支配という哲学の前提そのものが立証されておらず、永遠の知恵が目指しているという目的についても明らかにされていないゆえに、間違った前提から出発しており誤謬に帰着する、とブルクハルトは考える(14~15頁)。
 しかしそれにもかかわらず、歴史哲学においてすでに幸と不幸の問題は論じられている。ブルクハルトが批判の対象としているヘーゲルは、すでに個人の問題と歴史の意味の関係を以下のように処理している。
 個人というものは特殊的な事柄だけしか知らず、特殊目的だけを意欲するものである。つまり個人は一般に現象の立場に立つものである。「この立場が結局、幸または不幸の立場」であるとする。「自分の現前に現れる存在を自分の特殊的性格、意欲、恣意にうまく適合するように持って行き、その現前の存在の中で自分を享楽する者は幸福である。けれども世界史は必ずしも幸福の地盤ではない。幸福な時期とは世界史における空白な頁である。というのは、このような時期は調和の時期であり、対立を欠く時期だからである。」(ヘーゲル「歴史哲学  」91頁―92頁 岩波文庫)
 ブルクハルトの歴史学は、歴史を客観的に把えようとするが、そこに歴史家の精神が入り込んでいる。ヘーゲルの「歴史哲学」の方は、歴史の中に主観的精神をひとりでに展開させるが、叙述態度は客観的であって哲学者の感情が入らないのである。

(2012.4.12記)