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イッセイエッセイ

707号 政治と文化

2012年04月17日(火)

 政治体制としての民主主義の正統性はかつてないほど高まっているが、一方でこれを反比例するように、民主主義自体の危機ないし民主主義を支える社会の一体性が失われつつある現象がみられる、と宇野重規教授(東京大)は論じておられる。(日経新聞「経済教室」2012・2・23 「社会の一体性回復が急務」から)。
 前者の高まりの例としては、2010年末から現在もつづいている中東諸国の民主化運動いわゆる「アラブの春」、後者の一体性喪失の例としては最近のEUのギリシア、イタリアの政権交代。
 欧州では国際的な経済金融上の信用維持が優先されて、政権維持のできない政治に対し不信がつきつけられた。ギリシアの新首相に国内に政治基盤をもたないエコノミストが指名されたり、経済的実務家(学者など)を中心にイタリアの新内閣が組織されたりしたことを論拠としており説得力を有する。
 民主主義に取って代る別の体制はありえないとしても、民主主義の前提として内なる多様性や対立を容認する以上、土台となる社会の一体性(共通理解、関与性、主体性、共有性など)がなければ、日本のように戦略論や政局論ばかりが横行して、民主主義自体が崩れてゆくと述べている。
 この種の問題について、猪木武徳教授(青学大)は、ギリシアに関して、国民の納税義務意識の欠如、国家の徴税能力の弱体によって、収入以上に支出するというデモクラシー的欠陥が生まれ、イタリアもほぼ五十歩百歩であるとしている(2012・4・2「経済教室」「納税なくして国家なし」から)。
 ところで、ヤーコプ・ブルクハルトはその「世界史的考察」の中で、歴史の動因としての「政治」と「宗教」と「文化」の力を、互いに異質な「潜在力」としてとりあげ、相互の影響関係について述べている。
 国家は政治的欲求、宗教は形而上の欲求、文化は物質的欲求と精神的欲求にそれぞれ応えるものと考えられている。そして互いの制約関係を考察することが、歴史の理解を有効にするとしている。
 文化の定義づけは難しいのであるが、ブルクハルトは「国家と宗教と比べた場合、文化のもっている外面的な全形態が示しているのは、最も広い意味の社会である」と述べる(101頁)。
 また古代のポリスの説明のところで、「文化はこの場合商売に等しいものであるから」(209頁)、「植民地においては最初から文化(貿易、産業、自由な哲学等々)が主導的要素であった(210頁)と説明しているので、文化は現在で言われるような社会、経済、学術、芸術など広く指しているものとみられる。そして全盛期ギリシアのポリスを「文化によって制約されている状態にある国家」という分類に帰属させており、「民主主義の出現は文化―ここで言う文化とは理性的判断といったほどの意味である―による国家の制圧と見なしうるということである」(210頁)としている。
 ここから、ギリシアの文化(文化の意味は既述の通り広義である)が特定の担い手から万人の共有財産となったことと、民主制が出現したことの関係を、ニワトリとタマゴのような意味で説明しているように読める。ここから民主主義が出現し或るいは民主主義を健全に持続するには、文化のポテンシャルが高くなければならず、これが国家を制約できるかどうかにかかることになる。
 そこで上記のブルクハルトの「政治」と「文化」の関係論を、現代のギリシアの経済危機と議会制民主主義の不信に試しにあてはめるとどうなるか。
 ギリシアの「政治」は何故にうまく機能していないのか。これは広い意味の「文化」、つまりEUの一員としての自国の産業活動が自立することなく活発化せず、また社会のポテンシャルが低いままにあるからこそ、ギリシアの民主主義自体も衰退していると見ることができる。広い意味の文化の低下が政治を制約しているという仮説に至る。

 

(2012.4.6記)