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イッセイエッセイ

674号 孟姜女考(有吉佐和子のこと)

2012年02月07日(火)

 作家の有吉佐和子(1931年―1984年)は昭和59年に53歳の若さで急逝した。大佛次郎と大学で同窓であった彼女の父も53歳の時に亡くなったということである。父の銀行勤務の関係で10歳をやや超える年齢まで外国に暮らして日本のことを知らず、インドネシアでの生活だけが子供としての記憶だったらしい。
 戦前の教育を蘭領インドネシアで受けたことから、帝国日本が、立派な強い国だと信じて誇りに思っていたが、いざ帰国してみると、住宅は大理石で作られておらず余りにみすぼらしく、水洗さえもない。まるでインドネシアの下層民なみの生活水準ではないかと、子供ながらにがっかりしたと語っている。
 インドネシアの日本人学校で学んでいたころ、道路を歩く子どもたちを描いた絵が上半身しかないのを、日本からの転校生にどうしてなのかと尋ねられたということだ。インドネシアの河は泥濁りであり、河遊びを道路を歩いている絵に誤解されたわけである。日本の美しい川を一度も見たことがなかったのである。
 祖国に戻って日本のよさを最も感じたのは、川のたとえようもない澄んだ美しさ、歌舞伎のすばらしさ、この二点であったそうだ。
 「紀の川」を書いた動機は、日本の川の美しさをぜひとも小説に描きたかったことにあったようだ。歌舞伎や芝居への関心は、伝統芸能の研究と創作につながってゆく。
 この一月に放送されたNHKアーカイブス「文学と私」の中で、おおむね上記のようなことを語っていた(本稿は聞き書きであり、以下も放送のとおりではない)。
 作家はこの番組で「孟姜女考」という自作の一部も朗読していた。
 「有吉佐和子選集第二期」の第三巻(昭和53年 新潮社)にこの作品が入っており試しに読んでみたが、秦の時代の一種の烈女物語にまつわる各時代の解釈を中国旅行のルポタージュをまじえて考証した短い作品である。作家の好みにあった古代女性の逸話だったのであろう。作家はこの1973年5月2日の放送番組の中で、次のようなことを語っている。
 「作り話が出てくるのは、その背景がある。沢山の作家の知恵がそこにあり、一人の作家がひねり出せない深さがある」。
 また執筆の実際を語っている。小説は一日に二時間ほどしか書けない。集中するために書いていると息が止まってしまう。あとは本を読むが、寝転んで読むのが習慣である。だから乱視になった、と言っている。

(2012.2.6記)

 番組の解説をしている大村益次郎氏(元文芸誌編集長)の想い出話によると、有吉佐和子は、戦後の女流作家の中でも一番強烈な印象の女性作家であった。「孔雀が羽を広げたようなイメージ」、華やかであり、強力なパンチ力をもち、物おじせず、度胸がよく、ウィットにとんだ作家であった。芝居も書き、演出が厳しく、ダメ出しの多さ、そしてハイな気分で役者を押しまくった。
 日米修好百年記念で吉田茂がニューヨークを訪れた際、このまだ二十代の作家は留学中であったらしく、パーティの席で元首相に向かって、“あなたは日本の顔だから日米関係をしっかりやりなさいよ”、“今日は自足袋姿で出席すべきだったですね”と言い放ったそうである。吉田茂の方は、着物姿の彼女に向って“羽織袴をはいたら二人の後ろに金屏風がいるよ”と返答したという。二人はこのニューヨーク滞在の際、手をつないで公園を散歩をしたという。
 中国には何度も訪問しているが、周恩来総理と会見した際、“着物の柄を中国の花である牡丹にすべきでした”と言ったそうである。これに対して周恩来は、“あなたこそ牡丹ですよ”と応じたらしい。
 「有吉佐和子の中国レポート」(1979年 昭和54年 新潮社)の139頁には、おそらく1961年の訪問時のものと思われる日本作家代表団と同総理との記念写真が載っている。右から平野謙、周恩来、有吉佐和子、亀井勝一郎、井上靖の順で並んで写っており、有吉佐和子は白い地に派手な御所車の花柄の和服を着て、堂々と笑みをうかべている。 

(2012.2.7記)