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672号 吉良屋敷考

2012年01月22日(日)

 忠臣蔵の討入りで有名な吉良邸の西北隣は土屋(つちや)主税(ちから)(寄合職三千石の旗本)の屋敷、東北隣は(ほん)()(まご)太郎(たろう)(越前藩家老か)の屋敷であった。
 真山青果の『元禄忠臣蔵』では、討入り直後に義士長老組による隣近所の屋敷に対する挨拶まわりを、次のように描写。
 「小野寺ら三人は、目礼を終って、(ほん)()(まご)太郎(たろう)屋敷(上手)の方へ、また粛然(しゅくぜん)として歩み去る」(108頁)。
 また、赤穂浪士が復讐の顛末を公儀に届け出るため、仙石伯耆守(幕府大目付 千八百石)の屋敷に駆け込んだときの描写は、また以下のとおり。
 仙石「(ふと顔を上げて)途中から訊くが、その時隣家の者どもは如何(いかが)いたしおった。ただいま奥にて本所絵図を調べたるところ、東向いは牧野一学(いちがく)、これは当時駿府(すんぷ)在番中(ざいばんちゅう)ゆえ致し方なしとしても、北隣り東角(ひがしかど)は本多孫太郎、並びに土屋主税。これらの両家は、そちらの働きのあいだ如何取り計ろうた」(240頁)。
 仙石「吉良どのとは隣家の好誼(よしみ)あるに、三旗本ともに加勢をいたす模様はなかったのか」(241頁)。
 というような科白があるので、作者の真山青果の史実考証によれば、本多孫太郎は越前藩家老ではなく旗本ということになる。(参考 212号「実は忠臣蔵」) 

(2012.1.22記)