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イッセイエッセイ

648号 英語の放送、映画、歌、そして詩

2011年10月16日(日)

 

 英語は聞いて良くわかる方が楽しいはずだ。
 英語を学ぶことは楽しいことだと児童や生徒が実際に感じるように教育しなければならない。われわれが受けた教育に対する感想はと言えば、英語は難しい、単語を覚えるのが大変、何のために勉強するのか、英語はあまり楽しくない、であった。
 教える先生が教えることに楽しみを感じなければ、子供たちが学んでいて楽しいはずがない。英語の授業にぜひ楽しい雰囲気が出るようにして欲しい。
 それが外国の言葉であっても、心にしみる言葉として子供の記憶に残ると素晴らしいだろう。難解そうな詩の中のたった一行であっても、心に残るものが伝えられるなら、それは教育である。

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 仕事のうえで、外国の方と会談をすることが時にある。互いに表敬的な挨拶や必要な用件を述べ合うことはともかくも、それから後の懇談の場で、関心のあるさまざまなことを聞いたり、あるいは質問に答えたりする。しかし、いつも十分に意を得ない結果になって反省する。
 日本語でなら、相手がその問題に関心や知識があるか、どの辺まで突っ込んで尋ねるべきか、どういうバックグランドの人なのか、話し方や内容から、日本語なら自然に判るわけだ。しかし英語になると片言になってしまい、また通訳をつけても不満足なままのことが多い。相手の方もおそらく同様の状態であろう。
 外国語がわからないのは、ラジオの日本語がよくわからなかった記憶と似たところがある。子供の頃聞いた野球の実況放送は、実際の野球の様子とルールをよく知らないために音声だけではわからない言葉がいろいろあった。サンシャボンタイ、ギセイフライ、ダブルプレー、オモテ・ウラなどのアナウンサーの言葉を想い出す。
 今はさいわい吹き替えのTV映画が多いので、これは見ていても楽である。しかし時たま音声切換えのボタンを押すと、女優の声が全くちがっていて本物の方がよいと思うことがある。また字幕の出る映画は、便利な点は便利であるが、字幕に目が行ってこまかい却尾の中の道具など画面を見ていないことに気づく。
 最近は外国のニュースや映像がほとんど同時的に入ってくるから、それを切迫感をもって理解したりしようとすると、同時通訳の日本語だけでは調子がでない。
 さらに音楽や歌になると、メロディーはともかくほとんど何を歌っているかがわからず、楽しみが半減するのが実際である。ミュージカル映画のジュリー・アンドリュースのような明瞭な歌い方なら、まだ幾らか解ったような気持ちになれる。英語の歌詞は、文章としては断片的で文法もやや無視され、音の強弱や短縮が極端になっているから一層聞きづらいものになる(いまの日本のポップスも英語に似てきている)。この十月からのNHKのTV語学番組で、ジャズのスタンダードナンバーによる英語力アップの番組がはじまっており、ためしに一回目をみたが、選曲のせいか番組の調子がでるのはこれからかと思った。
 会話、映画、ニュース、歌というように、外国語としてだんだん自分たちには理解しにくい種類のものに話しが及んできたが、最もやっかいなものは英語の詩の理解であろう。音声の難しさを離れ文章として読んでも、英詩は理解しにくい代表的なタイプのものである。
                                                 (’11.10.2記)

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 次にいくつかの英詩を記す。
 まずは上田敏の詞藻に富む訳詩によってよく知られているロバート・ブラウニング(1812年-1889年)の「ピパの唄」(1841年)と呼ばれている詩である。日本語に訳すと詩の意味内容は同じはずであるが、訳者によって言語表現がまったく異なるので詩としての印象も異なる。

             時は春、
             日は朝、
             朝は七時、
             片岡に露みちて、
             揚雲雀なのりいで、
             蝸牛枝に這ひ、
             神、そらに知ろしめす。
             すべて世は事も無し。
             (上田敏訳「海潮音」1905年)

The year’s  at the spring,     歳はめぐり、春きたり、
And day’s at the morn;      日はめぐり、朝きたる。
Morning’s at seven;         今、朝の七時、
The hill-side’s dew-pearled;   山辺に真珠の露(きらめ)く。
The lark’s on the wing;      雲雀(ひばり)、青空を()け、
The snail’s on the thorn;     蝸牛、(いばら)の上を這う。
God’s in his heaven―      神、天にいまし給い、
All’s right with the world!     地にはただ平和!
                           (「イギリス名詩選」平井正穂編 1991年)

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 次に掲げる詩は、ヴィクトリア朝期のアルフレッド・テニスン(1809-1892年)のもの、この桂冠詩人の辞世の詩ともいわれる「砂州をこえて」の第一節である。詩の中の言葉「砂州」は、生と死の境界を暗示しているという解説である。この詩にも異なった二つの邦訳を例示してみよう。

「Crossing the Bar」                          「砂州を越えて」テニスン(1889年)
Sunset and evening star,            日は暮れて 夕べの星
 And one clear call for me!            われを呼ぶ 澄みし呼び声!
And may there be no moaning of the bar, 願わくは(さす)州のくるしみ 無からんことを
 When I put out to sea,               われ大海に 船出するとき
                             (「テニスン詩集」西前美巳訳 2003年)

              「砂州をこえて」テニソン
              夕陽が沈み、空には宵の明星(みょうじょう)が輝き、
                私を呼ぶ澄みきった声が聞こえる!
              私が船出をする時、この砂(さす)からは、
                悲しみの声が漂ってこないことを、私は切に願う。
                        (平井正穂編「イギリス名詩選」1991年)

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 次にイェイツの詩から、テーマ的にも言葉使いからも幾らか日本人にわかるような一節をとり、訳出してみた。
 アイルランドのノーベル賞詩人であるW.B.イェイツは、アイルランドの民族的題材を扱い、またその詩には日本の能の言葉も活用したといわれている。日本でいえば島崎藤村や与謝野晶子と同時代に生きた人である。William Butler Yeats(1865―1939)、awarded Nobel prize in 1923

(1)アイルランド独立運動に身を捧げた姉妹の思い出を歌う(一部)。

Dear shadows, now you know it all,   懐かしい影たちよ、もうよく知っているはず、
All the folly of a fight            公の悪や正義に対する戦いが、
With a common wrong or right.      どんなに馬鹿げていることかを。
The innocent and the beautiful     清純な人や美しい人には、
Have no enemy but time;         時間のほかに敵はないのだ。
             (In Memory Of Eva Gore-Booth And Con Markievicz 1927年)

(2)日本人佐藤から贈られた日本刀のことを歌う(一部)。

The consecrated blade upon my knees  わが膝の上にある聖なる剣、
Is Sato’s ancient blade,still as it was,    これはサトウがくれた古い刀だ。
Still razor―keen,still like a looking-glass なおも切れ味するどく、まるで鏡のように、
Unspotted by the centures;          幾世紀をえても曇りひとつない。
                           (A Diglogue of self and soul 1929年)

(3)二つの極の間で人間が動揺することを歌う(一部)。

Things said or done long years ago,  ずっと昔から、言ったりやったりしたこと、
Or things I did not do or say       あるいは、やらなかったり言わなかったこと
But thought that I might say or do,   しかし、言ったりやったりしていたらとの思いが、
Weigh me down, and not a day      私を打ちひしぐ。
But something is recalled,         一日として、何かを想い出さぬ日はなく、
My conscience or my vanity appalled  私の良心や慢心はおそれおののく。
                           (Vacillation 動揺 1932年)

                (「対訳イェイツ詩集」高松雄一訳編から 岩波文庫 2009年)

                                                                                                 (2011.10.6記)

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 上記の「イギリス名詩選」の翻訳者である平井正穂(1911-2005年)という方は、L・ハーン、漱石、斉藤勇についで東大の英文科の講座を担い、多くの優秀な人材を育てた先生のようである(平成17年に93才にて死去)。
 名詩選の「はしがき」では、「自分の好きな詩人をもつということが、いかに素晴らしいことか・・・」、「この訳の限界を充分知った上で、読者がテキストを再三読まれんことを、それも声を出して読まれんことを私は切に願う。そして、もしできれば、教養のあるイギリス人に声を出して読んでもらうことを私は希望する」と述べる。

 また英詩の翻訳の考え方については、「作者の声のもつ多声的な(ポリフォニー的な)性格、或いは複数のコンテキストが奏する交響楽的な響き」を耳にしながら、仕事としては、「それらの声を無声化し、単純化し、およそ原文からは想像できないような散文的な訳をつけた」と記す。この「イギリス名詩選」の邦訳は、1980年代・昭和の終わり頃、羽仁恵子園長の要請で訳者が自由学園において月一回の英詩講読を行ったものをもとに編集したと書かれている。

(2011.10.13追記)