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イッセイエッセイ

644号 東洋の政治、そして地方的なもの

2011年10月01日(土)

 「西欧的理解における政治が、貴族の民主主義的伝統にもとづく利害調整の体系だとするならば、東洋的理解における政治は、郷村の共同体的伝統にもとづく夢と欲望の体系と規定できる。それゆえに東洋では政治は徒党の非行という性格を帯びるのだともいえる。」
 上記は、「民衆という幻像」(渡辺京二コレクション2 民衆論 ちくま文庫2011年7月)の中の一編「非行としての政治」(1982年)からの引用である。
 ロシアの専制君主ピョートル一世は、伝記によると臣下に身をやつしたり怪しげな人物と結びつくなど、常軌を逸したさまざまなアンチ・ツァーリ型の奇行と無法をつくしたらしい。こうした東洋的ロシアの歴史上の人物ピョートルを例にとりながら、つまるところ東洋の政治は徒党が成り上って権力をとるという繰返しの歴史であり、その政治的な性格は一種の非行であるとしている。
 明治維新や戦後改革、そして現政権がみずから三度目の維新と言っている政権奪取を、こうした眼でとらえ直してみると、一体どういう歴史的映像が写し出されるのであろうか。
 政治的約束と実行力の分裂、公の政治目標と私的心情との混同、大衆への過敏な迎合、統治内組織への敵視など、これら逸脱性を帯びた最近の政治の混乱は、東洋的政治として見た場合にはじめて意味が分かる話かとも思われる。
 もう一編「歴史と文学のあいだ」(1977年 熊本日日新聞)を読むと、次のような意味の記述がある。
 寂しい谷あいの一軒家、田舎の旅館の主婦になっているロシア人女性、山向うの蜜柑村、筆者はこうした思いがけない田舎の生活や風景に出会うとき、「地方」とは通常は人々の目から隠されているものの象徴であると感じとる。「地方」が自分をひきつけるのは、日本の基層で生きる人々の生活がそこに露頭するためであるとし、歴史とも文学とも特殊化できないような地方の生活自体と世界全体とかかわりの意味について、ぜひとも歴史の形式の中でとらえる仕事をしてみたいと言う。
 しかしこうした感じ方は、著者が別のところ(「社会主義は何に敗れたか」1990年)で述べていることに関係するかもしれない。
 つまり、自由な経済市場や高度な消費文明に対して、地方とか田舎とかが、こうした経済の化け物になお呑みこまれない生活部分を些かなりとも残している、この地方の事実が希望のようなものをわれわれに示しているのではないかという点である。

 

(11.9.19記)