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イッセイエッセイ

643号 本さまざま

2011年09月30日(金)

 一と月ほど前であったが、新聞の読書欄だったか、作家の古井由吉さんがシュティフターという作家の小説には善人しか出てこないということを書いていたので、それは安心して読める本かと思い「石さまざま(上・下)」(田口義弘他訳 松籟社 2006年)を借りた。
 その中の「花崗石」(1849年)と「水晶」(1845年)を読んだ。このアーダルベルト・シュティフター(1805―1868年)は、ふるさとのボヘミア地方(チェコ)を舞台に、作者がいうように「ありふれた人間」と自然の風物との一体的な係わりを精密に描いてゆく。さらに20年ほどの後のドイツの作家シュトルムと読後感がやや似た作家である。

 ペルー生まれの2010年ノーベル文学賞作家、マリオ・バルガス・リョサの2003年の作品「楽園の道」(世界文学全集 河出書房新社 田村さと子訳 2008年)を読みはじめた。はじめの一、二章で全体の登場人物とストーリーが混乱してしまった。そこで改めて、うしろの解説を読んでみてわかったことだが、これは仏の後期印象派の画家ポール・ゴーギャン(1848―1903年)と彼の祖母フローラ・トリスタン(ルイ・フィリップ時代の女性革命家である)の二人の物語であることがわかった。この小説の形式は、50年ほど時代と場所のちがう二人の関係者を、一章ずつ互いに登場させる「対立法」で描いている。文学として、こういう構成をとる必然性があるのかはわからぬが、人間の関心は1つのものに長くは持続できないので、それを時間的に救う効用があるであろうし、また人間の頭の中の動きも、あっちとこっちと行き来するのが実際だから、そういう実際にこの形式が合っているのかもしれぬ。
 そうだから時間を無視してまあ試しに、最後の章と一つ前の章を逆に読んでみた。いずれの章も、世の反逆者であり、夢想家で実行家としての二人の主人公の死の場面である。
 この本は、先月であったかペルーのカプニャイ大使が何回目かの来福をされた際、両国の文化や食べ物などの話しになって、貴国の文学者の代表は誰かと問うたところ、リョサであるという答えがあり、本書が約言にしたがって送られてきたのである。
 さらに言うなら本書は歴史小説であり、文体にも特徴がある。主人公に対して、「…なんだよフロリータ」、「・・・だったねポール」というように、誰かが本人に語りかける表現が多用されている。日本の芸能でいえば二人の掛け合いを一人二役で、つまり自分に対してツッコミを行い、言いきかせるような反省的形式をとっている。
 実際にストーリーとして生起する場面は生々しく、即物的であり描写速度も早く、感傷的で淡白な日本人にはハードな印象を与える。上記のシュティフターのような透明感のある描写の、また人々が自然そのものの構成物であるような強さの小説とは、対立位置にある文体である。 

(2011.9月末)