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イッセイエッセイ

632号 糸瓜と社会

2011年09月03日(土)

 へちま(糸瓜)やゴーヤ(苦瓜)それに朝顔も、俳句の歳時記上は夏の季語ではなく、秋の季語である。本物のこれらの植物も歳時記の通り八月の終りになって元気に繁りだした。真夏の時とは違って秋の西日を遮るにも、葉の重なりには不足がないのである。
 とくに糸瓜は、化け胡瓜がさらに化け直したように、葉陰の中にまじって隆々たる姿で伸びている。
 一枚一枚の葉は、風をうけて絶えず独自のそよぎを見せ、茎が一緒につながるものは同時にくるくると動く。さらに強い風が来ると、糸瓜の柵は全体として一つの布のようになって、前へ後へ或いは波をうちながら大きく揺れるのである。棚の向うに梢高く遅咲きしているはずの白サルスベリが、今年はこの瓜の棚にすっかりかくれてよく見えないのである。
 初めて作ってみた糸瓜と苦瓜の緑のカーテンを眺めているうちに、これら植物の様子が、個人と社会との関係を理解するのに格好の例だと思うようになった。
 社会学の基礎をつくったG・ジンメルの「社会的分化論」という本がある。これを6月頃に斜め読みしたのだが、その中でジンメルは、社会は単なる個人の集合体ではなく、社会それ自体として独自のダイナミックな運動原理を有している。そして社会は個人との関係で互いに影響をし合うという意味の理論を展開していた。そうでなければ、社会とは何かを抽象的に知る必要はなく、個人を研究することで十分であろうからだ。
 人間の社会は、もちろん植物の瓜類のように、根っこを一本にして成り立ってはおらず、また一体としての有機体でも決してない。しかし、窓の外に眺められる糸瓜や苦瓜の動きをみていると、社会と個人の場合であっても全体と部分の関係を超えた相互作用と発展原理を有しているように思えてくるのである。

 

(2011.8.28記)