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イッセイエッセイ

606号 何のための数学

2011年06月02日(木)

 数学教育には、教師の数学史や科学史についての知識が不可欠だと思っている。単なる計算と問題解きの授業は、子供の算数嫌いと苦手意識を助長すると思う。そんな気持ちになって「数学の文化史」(モリス・クライン著、2011年4月、中山茂訳 河出書房)のあちこちを「斜め読み」ならぬ「眺め読み」をした。
 本書の第13章「自然の量的研究」は、ガリレオ・ガリレイの話しである。
 ガリレオの科学的業績の成功の秘密は、科学の方法の新しい目標を作ったことである。それは自然に対して、自然学的(””)説明()とは()なれて(”’)科学的現象の量的()表現()を見つけ出すという革命的性格を持っていたことである。
 ギリシャ時代の科学者達は、自然現象を人間と切り離して見ることには成功したが、なお自然現象がなぜ起きるかにこだわり、これをなんとか証明しようと無駄な努力をした。
 たとえば、自然は真空を嫌う、円運動はもともと自然なものであるといった説明。またアリストテレスも起源、本質、形相、性質、原因、目的などのカテゴリーを設定することに才能を費した。
 しかしガリレオは、このような事象の究極の原因、理由を知ろうとする考え方について、それが無益な企てであることを自覚した最初の人であった。その代わりに、現象を厳密な言葉で定量的(数式的)に表現()することを提唱して成功した。そしてニュートンがそれを引継ぎ、天と地の統一原理へと展開した。

 「自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情の一つの小さな前景にすぎない。」
 上記の一文は、同時併行で読んでいた南木佳士という小説家でお医者さんの「天地有情」(2004年、岩波書店)という随筆の中に出ている。哲学者の大森荘蔵という人のエッセイからの引用らしい。お天気と人間の気分との関係が、自然と人間のつながりの好い例だと言う。空が晴れると心も明るくなる。天地に地続きの我々人間は、自然の微小な前景として、天地の感情的なものに参加するのだという。
 ここで「天地有情」の意味は、人間とその感情が独立なものではなく、大きな自然の一部にすぎないことを言っている。しかし有情という人間的表現を天地に対し使っている。もちろんだからと言って自然が人間的なふるまいをしたり、人間のことに関心を寄せているという意味ではない。
 さて、本文を書いているうちに脱線をしてしまった。
 著者のクライン(1992年没)は、数学教育の改革論者であった。数学のための数学というような数学教育者に抗して、数学を物理など科学への応用、また社会・文化の中の数学として捉えようとし、教えようとした教育思想の持ち主だったらしい。
 「数学教師は学生が悪いというが、それよりも数学教育のカリキュラム、教科書、それに教師自身が悪いのだ」とクライン先生は教育界を攻撃したので、反発する人も多かったらしい。訳者の中山茂(科学史研究家)は、あと書きでそう記している。

(’11.5.29)